2023年4月18日火曜日

Richard Baldwin 「『ワインの経済学』が明かす『お得なワイン』とは?」(2008年6月28日)

Richard Baldwin, “Wine economics and economical wine”(VOX, June 28, 2008)
身近にある気楽な話題に切り込んだ厳密な研究によると、テロワール(ブドウの生育環境)はワインの質と関係ないようであり――ワインの値段となると話は別――、ワイン「専門家」の意見(評価)はワインの将来(飲み頃になった頃)の質や値段を予測するのに役立たないようだ。

経済学者の手にかかると、何もかもがつまらなくなってしまうのはどうしてなんだろう?

世界中のワイン愛好家の間では、テロワール(ブドウの生育環境)の細部について語らうのが楽しみの一つになっている。サン・テステフ村とポイヤック村を比べると、ワイン用のブドウを栽培するのが難しいのはサン・テステフ村の方というのが目利きたちの間で一致した意見だ。その理由は、サン・テステフ村の土壌の方が重みも厚みもあるから・・・ですよね?

そんなのは戯言(たわごと)だ!・・・と語るのは、オリヴィエ・ジャーゴウ(Olivier Gergaud)&ヴィクター・ギンスバーフ(Victor Ginsburgh)の二人だ。エコノミック・ジャーナル誌に掲載された彼らの共著論文では、100箇所のブドウ園を対象に、テロワール――土壌の特徴、日当たりの良さなど――に加えて、ワインがどんな方法で製造されているか――どの種類のブドウを栽培しているか、ブドウをどのようにして収穫しているか、ワインをどのように瓶詰めしているか等々――についてもデータが集められている。そして、そのデータをワインの質を測る指標(専門家らによる評価、競売価格)と突き合わせたところ、テロワールは鍵を握っていないことが見出されたという。ワインの質を左右するのは、テクノロジー(ワインの製造方法)だというのだ。「テロワールこそが重要なのだ!」と説くフランス発の神話はそう簡単には解体されないだろうが、お金を賢く使いたいならそんな神話なんて無視すべきなのだ。

エコノミック・ジャーナル誌の同じ号には、テロワール神話解体派の首領(ドン)とも言えるオーリー・アッシェンフェルター(Orley Ashenfelter)の論文も掲載されている。アッシェンフェルターによると、ボルドー産のワインは年を重ねるほど(熟成が進むほど)味わいがよくなるおかげで、同じワインであってもしばらく待っていたら倍の値で売れるという。ボルドーワインを若いうちに飲んでしまうつもりなら、デキャンタする(ガラス容器に移し替えて空気に触れさせる)のをお忘れなく。

マーケットが素面(しらふ)でちゃんと機能しているようなら、ワインの先物価格(まだ樽に入っている出荷前のワインに付けられる値)は、そのワインが飲み頃になった時にどのくらいの値で手に入れられるかを先取りして伝える偏りのない指標になっているはずだ。しかしながら、現実はそうなっていない。それぞれの生産年度(ヴィンテージ)のボルドーワインの質や値段(飲み頃になった時の値段)はそのワインが製造された年(そのワインを作るのに使われたブドウが収穫された年)の気候によってうまく予測できる。しかしながら、気候という簡単に測れる決定因は、ワインの先物取引で買い手に回る諸君にすっかり無視されてしまっている。その代わり、出荷前のワインに付けられる値に影響を及ぼしているのがその道の専門家による試飲結果――とりわけ、ロバート・パーカー(Robert Parker)が試飲して下した評価(点数)――だ。

お金を賢く使いたいなら、パーカーの評価なんて無視すること。その代わり、ワインが製造された年の気候情報に加えて、アッシェンフェルターの論文――“Predicting the Quality and Prices of Bordeaux Wine”(「ボルドーワインの質と値段を予測する」)――のコピーを手に入れるのをお薦めする。

・・・というアドバイスは、値段相応のワインを「味わう」つもりのようなら申し分ないと言えようが、ワインで「お金儲けをする」つもりのようなら別のアプローチを試す必要がある。ケインズがいみじくも喝破しているように、美人投票で誰が一位になるかを予測するためには、「誰が美しいか」を判断するのではなく、「みんなが誰を美しいと判断しているか」を判断するのが肝心になってくる。ボルドーワインに関しては、 あの人の判断を無視するわけにはいかない。それは誰かというと、・・・そう、ロバート・パーカーだ。

巧みな手を使って「パーカー効果」の大きさを推計しているのがマイケル・ビサー(Michael Visser)らの論文である。ボルドーまでわざわざ足を運んで、出荷される前のワインを試飲して点数を付けるというのがパーカーの長年の習わしだった。パーカーが下す評価は、ワインの先物価格にかなり大きなインパクトを及ぼしていることが統計分析の結果として明らかになっている。しかしながら、2003年に関してはそうはならなかった。イラク戦争を恐れてか、パーカーは春になってもボルドーを訪れなかった。そのため、2003年に関しては、パーカーが評価を下す前に既に先物価格が決まっていたのである。ビサーらの論文では、およそ250種類のワインの2002年と2003年の分の先物価格のデータを比較して、「パーカー効果」の大きさが推計されている。その大きさは、ワイン1本あたりおよそ2.8ユーロになる(パーカーの評価が加わるだけで、ワインの先物価格が平均すると2.8ユーロくらい高まる傾向にある)ということだ。

2023年4月10日月曜日

David Ubilava&Rebecca Edwards&Stefanie Schurer&Kadir Atalay 「コロナ不況で救われる命:オーストラリアの過去40年のデータから得られる証拠」(2020年11月2日)

David Ubilava&Rebecca Edwards&Stefanie Schurer&Kadir Atalay, “Lives saved during economic downturns: Evidence from Australia”(VOX, November 2, 2020)

新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために社会経済活動の制限を試みる一連の措置は、益よりも害が多いと説く声がある。社会経済活動を制限するのに伴って、景気が落ち込むだけでなく、孤立するのを強いられてメンタル面にも悪影響が及ぶというのだ。本稿では、オーストラリアの過去40年のデータを利用して、景気後退が死亡率に及ぼす影響を検証した。その結果はというと、景気後退は死亡率にほとんど影響を及ぼさないようだ。ただし、例外がある。景気が後退すると、交通事故死が減る傾向にあるのだ。ロックダウンやそれに伴う景気の落ち込みが心身の健康に悪影響を及ぼす可能性を排除するつもりは毛頭ないが、ロックダウンやそれに伴う景気の落ち込みの影響で車の交通量が減るおかげで死亡率はむしろ低下することになるかもしれない。


新型コロナの大流行を原因とする公衆衛生面での危機に立ち向かうために、世界中の各国で社会経済活動の制限が試みられている。その結果として失業が一時的に急増しているだけでなく、景気の落ち込みが長引くのではないかとも予想されている。「大封鎖」(グレート・ロックダウン)は、1930年代の「大恐慌」と同等の破壊的な影響をもたらすのではないかと予測する声も聞かれるくらいだ(Gopinath 2020)。ロックダウン(都市封鎖)のコストをめぐって世界中で議論が続けられている最中だが、ロックダウンのような「厳格な措置」は益よりも害が多いと説く論者もいる。その言い分によると、ロックダウンによって景気が落ち込むだけでなく、ロックダウンによって孤立するのを強いられる(他者と交流できなくなる)せいでメンタル面(メンタルヘルス)にも悪影響が及ぶというのだ(ABC 2020, Benson 2020, Giuffrida 2020, Collins and Cox 2020)。

ところで、景気が後退すると死亡率が低下することを見出している一連の先行研究がある。そこにオーストラリアで得られた証拠を新たに付け加えて、ロックダウンのコストをめぐる国内外の議論に一石を投じようと意図しているのが我々の最新の研究である(Atalay et al. 2020)。ことオーストラリアに関しては、景気後退は死亡率にほとんど影響を及ぼさない――景気が後退しても死亡率はほとんど変化しない――というのが過去40年のデータから示唆される結論である。ただし、例外がある。景気が後退すると、交通事故死が減る傾向にあるのだ。その一方で、景気後退は自殺に対して何の影響も及ぼさないことが見出されている。これらの結果は、ロックダウンの影響で景気が落ち込むと、少なくとも国民皆保険が実現している国においては死亡率が低下する可能性があることを示唆している。2020年の終わりまでにオーストラリア国内の失業率は5.1%から10%へと上昇するというのがオーストラリア準備銀行の見立てだが、もしもその見立て通りになったとすると、オーストラリア国内の死亡者の数は(交通事故死が減るおかげで)425人だけ減る――425人の命が救われる――というのが我々の研究から導かれる推計結果である。この推計結果は、未曽有の経済危機に陥る可能性を慎重に考慮に入れた上で導き出されている。景気が落ち込めば心身の健康に悪影響が及ぶかもしれないし、ロックダウンによって心身の健康が損なわれて自殺が増えてしまうかもしれない。その一方で、ロックダウンによって車の交通量が減れば――それに加えて、在宅勤務が広がれば――交通死亡事故が減り、そのおかげで景気後退が死亡率に及ぼす影響がいつにも増して強まるかもしれない。

景気の良し悪しと死亡率との関係をめぐっては続々と研究が積み重ねられているが、その先駆となったのがクリストファー・リューム(Christopher Ruhm)の画期的な研究(Ruhm 2000, 2015)である。リュームが探ったのは、景気の後退がその国で暮らす人々の健康にプラスに働く(健康を増進させる)可能性だった。景気が後退すると、金銭面で余裕がなくなって生活が苦しくなりがちだとしても、失職して時間の余裕が生まれると、病院に通って治療したり、誰かと一緒に過ごしたり、親戚の世話をしたり、健康的なライフスタイルを送ったりできるようになる。失職すると、事故に遭う機会が減る可能性もある。通勤しないでよくなるので車を運転する機会が減るし、仕事で危ない目(労災)に遭わずに済むようになるからである。すなわち、一国全体のレベルで見ると、 景気が悪化する――失業率が高まる――のに伴って、国民の心身の健康状態が上向くおかげで死亡率が低下する可能性があるわけだ。挑戦的で物議を醸す仮説ではあるが、国別(アメリカ、カナダ、メキシコ、ドイツ) のデータを利用した研究でも、地域別(OECD加盟国、アジア太平洋地域)のデータを利用した研究でも、その妥当性を裏付ける実証的な証拠が得られている。すなわち、「失業率が高まると、死亡率が低下する」という仮説が支持されているのだ(Ruhm 2000, Gerdtham and Ruhm 2006, Miller et al. 2009, Ariizumi and Schirle 2012, Lin 2009, Neumayer 2004, Gonzalez and Quast 2011)。この分野にオーストラリアで得られた証拠を新たに持ち込んだのが我々の研究であり、1979年から2017年までのおよそ40年間にわたる死因別死亡率の時系列データ――そのデータはオーストラリア健康福祉研究所(AIHW)が作成しており、州別/男女別/年齢別に死因別死亡率が跡付けられている――を利用して実証的な検証を試みている。これまでにオーストラリアは研究の対象になっていないが、国民皆保険が実現していてセーフティーネットが比較的充実していてOECD(経済協力開発機構)に加盟している裕福な国についての重要な洞察を得る上でオーストラリアは格好の対象である。

我々の研究を通じて得られた主要な結果を要約しているのが以下の図1である。失業率の変化が死亡率に及ぼす影響がまとめられているが、全年代をひっくるめた結果に加えて、年齢別――年少層(0歳~14歳)、若年層(15歳~24歳)、年長層(25歳~34歳)、中年層(35歳~64歳)、高齢層(65歳以上)の5階級――の結果も示されている。全年代をひっくるめると、失業率が高まっても死亡率には何の影響も及ばないというのが我々が見出した結果である(一番左)。失業率が1ポイント(1パーセントポイント)上昇しても死亡率には何の影響も及ばないのである(失業率が1ポイント上昇すると死亡率が0.02%低下するという結果が得られているが、 統計的に有意ではない)。しかしながら、若い世代――若年層+年長層(15歳~34歳)――に関しては、失業率が高まると死亡率が低下するという関係(統計的に有意な関係)がはっきりと成り立つことが見出されている。男女別で検証した結果も加味すると、15歳~34歳の若い世代で「失業率が高まると死亡率が低下する」という統計的に有意な関係が成り立つのは、失業率が高まると若い(15歳~34歳の)男性の死亡率が低下するおかげのようだ。中年層(35歳~64歳)および高齢層(65歳以上)に関しては、失業率と死亡率との間に統計的に有意な関係は見出されなかった――中年層、高齢層を個別に検証しても、ひっくるめて検証しても、5歳刻みないしは10歳刻みでグループ分けして検証しても、統計的に有意な関係は見出されなかった――。

図1


オーストラリアのデータの検証を通じて我々が得た結果は、2000年よりも前のデータが対象になっている Ruhm (2000, 2015) や国民皆保険が実現していないアメリカが対象になっている Stevens et al.  (2015) で得られている結果と大体足並みが揃っている。例えば、Ruhm (2000) によると、20歳~44歳の年齢層については「失業率が高まると、死亡率が低下する」という関係(統計的に有意な関係)が成り立つ――失業率が1ポイント上昇すると、20歳~44歳の世代の死亡率が1.9%低下する――ものの、中年層・高齢層についてはそのような関係は見出せないとのことであり、我々の研究と同様の結果が得られている。また、Stevens et al. (2015) では、15歳~29歳の男性(および、15歳~24歳の女性)について「失業率が高まると、死亡率が低下する」との関係が見出されており、失業率が1ポイント上昇すると(15歳~29歳の男性、15歳~24歳の女性の)死亡率が1.1%~1.8%低下するとの結果が得られている。それに加えて、Stevens et al. (2015) によると、失業率の変化が死亡率に及ぼす影響は女性よりも男性の方が大きいとのことであり、我々の研究と同様の結果が得られている。

我々の研究では、失業率の変化が死亡率に及ぼす影響を死因別に分解して検証してもいる。図1にまとめられている結果が特定の死因の変動によって突き動かされているかどうかを確かめるためにである。その検証の結果はというと、一つの例外を除いて、「失業率が高まると、○○を死因とする死亡率が低下する」という関係は見出されなかった。一つの例外というのは、交通事故死である。失業率が高まると、交通事故死が一貫して減る傾向にあるのだ。具体的に言うと、失業率が1ポイント上昇すると、交通事故死が6%減る傾向にあるのだ。これは従来の研究で見出されているよりも倍の影響の大きさであり、人数に換算すると年あたり88人の命が(交通事故死する運命を逃れて)救われる計算になる。そのうちの73人は男性で、残りの15人は女性である――命が助かる男性の数は、命が助かる女性の数の5倍――。また、失業率の変化が交通事故死の数に及ぼす影響が一番大きく表れる世代は、生産年齢に該当する世代である。このことを踏まえると、若年層+年長層(15歳~34歳)に限って「失業率が高まると、死亡率が低下する」という関係(図1)が成り立つのは、失業率が高まるとこの世代の交通事故死が減るおかげということになろう。「景気が後退すると、交通事故死が減る」傾向は、オーストラリア以外の国(アメリカ、ドイツ、カナダ、フランスなど)でも一貫して見出されている。従来の研究では、失業率が1ポイント上昇すると、交通事故死が2~3%ほど低下するという結果が得られている(Ruhm 2000, Neumayer 2004, Gerdtham and Ruhm 2006, Lin 2009, Ariizumi and Schirle 2012, Brüning and Thuilliez 2019)。

アメリカで得られた結果とオーストラリアで得られた結果との間には、特筆すべき違いがいくつかある。まず第一に、オーストラリアが対象になっている我々の研究では、景気の後退が年少層(0歳~4歳)や高齢層(65歳~84歳)の死亡率に影響を及ぼしている証拠は見出されていないが、アメリカが対象になっている Stevens et al. (2015) では、景気が後退すると年少層や高齢層の死亡率が低下することが見出されている。「なぜそうなるのか?」という疑問に対する答えの候補として Stevens et al. (2015) で着目されているのが、景気変動に伴う医療の質の変化である。アメリカの医療の質は、病院やナーシングホームで働く医療従事者の質によって左右される。景気が後退すると、病院やナーシングホームで働く医療従事者の質が上がり――スキルの高い求職者が医療現場に集まり――、そのおかげで年少層や高齢層の死亡率が低下するのではないかというのが Stevens et al. (2015) の説である。別の違いに話を転じると、我々の研究では、Stevens et al. (2015) とは異なり、失業率が交通事故死以外の死因(自殺、心臓疾患、呼吸器疾患、脳血管疾患、肺炎、インフルエンザ)による死亡率に影響を及ぼしている証拠は見出されていない。かような違いが生まれる理由は、オーストラリアのように国民皆保険が実現している国では、医療の質も医療へのアクセスのしやすさも景気変動の影響を受けにくいからかもしれない――その理由は、公費が絶えず投入されているおかげもあって、景気が悪化してお金のやりくりが苦しくなっても医療を受けられる余裕があるからである――。 オーストラリアの国民皆保険制度は、国民(とりわけ、年少層や高齢層)の健康が景気変動に左右されるのを防ぐ壁の役割を果たしているのかもしれない。同様の指摘をしている Ariizumi and Schirle (2012) によると、カナダでも景気変動が年少層や高齢層の死亡率に影響を及ぼしている証拠は見出せないとのことだ。カナダと言えば、医療制度の面でオーストラリアとよく似ている国である。また、OECD加盟国が対象になっている Gerdtham and Ruhm (2006) によると、社会保険制度が充実している国においてほど、失業率と死亡率の負の相関――「失業率が高まると、死亡率が低下する」という関係性――は弱まるとのことである。

<参考文献>


●Atalay, K, R Edwards, S Schurer and D Ubilava (2020), “Lives Saved During Economic Downturns: Evidence from Australia”, IZA Discussion Paper 13742
●Ariizumi, H and T Schirle (2012), “Are recessions really good for your health? Evidence from Canada”, Social Science & Medicine 74(8): 1224-1231.
●Australian Broadcasting Corporation (ABC) (2020), “‘Extreme’ COVID-19 epidemic better than lockdown argues economist, but others strongly disagree”, 20 April.
●Benson, S (2020), “Coronavirus Australia: suicide’s toll far higher than virus”, The Australian.
●Brüning, M and J Thuilliez (2019), “Mortality and Macroeconomic Conditions: What can we learn from France?”, Demography 56(5): 1747–1764.
●Cameron, A C and D Miller (2015), “A Practitioner’s Guide to Cluster-Robust Inference”, Journal of Human Resources 50(2): 317-372.
●Collins, A and A Cox (2020), “Coronavirus: why lockdown may cost young lives over time”, The Conversation.
●Gerdtham, U G and C J Ruhm (2006), “Deaths rise in good economic times: Evidence from the OECD”, Economics and Human Biology 4(3): 298–316.
●Gonzalez, F and T Quast (2011), “Macroeconomic changes and mortality in Mexico”, Empirical Economics 40: 305–319.
●Gopinath, G (2020), “The Great Lockdown: Worst Economic Downturn Since the Great Depression”, IMF Blog.
●Giuffrida, A (2020), “Italy’s lockdown has taken heavy toll on mental health, say psychologists”, The Guardian.
●Lin, S-J (2009), “Economic fluctuations and health outcome: a panel analysis of Asia-Pacific countries”, Applied Economics 41(4): 519-530.
●Miller, D L, M E Page, A H Stevens and M Filipski (2009), “Why Are Recessions Good for Your Health?”, The American Economic Review Papers & Proceedings 99(2): 122-127.
●Neumayer, E (2004), “Recessions lower (some) mortality rates: evidence from Germany”, Social Science & Medicine 58(6): 1037–1047.
●Ruhm, C J (2000), “Are recessions good for your health?”, Quarterly Journal of Economics 115(2): 617–650.
●Ruhm, C J (2015), “Recessions, healthy no more?”, Journal of Health Economics 42: 17-28.
●Stevens, A H, D L Miller, M E Page and M Filipski (2015), “The Best of Times, the Worst of Times: Understanding Pro-cyclical Mortality”, American Economic Journal: Economic Policy 7(4): 279–311.

2023年1月14日土曜日

Martin van Tuijl&Jan C. van Ours 「『観客らは決着がついたと思っているようです』 ~国民性、土壇場でのゴール、PK戦~」(2010年6月15日)

Martin van Tuijl and Jan C. van Ours, “They think it’s all over: National identity, scoring in the last minute, and penalty shootouts”(VOX, June 15, 2010)

第19回目(2010年度)のFIFAワールドカップが南アフリカで開催中だが、本稿では、6カ国――ベルギー、ブラジル、イングランド、ドイツ、イタリア、オランダ――の代表チームの1960年以降の成果に分析を加えた結果を報告する。サッカーの国際大会では、ホームアドバンテージ、スキル、運といった要素もそれなりに試合の行方を左右しているが、試合終了間際の土壇場においては「国民性」が物を言うこともあり得るようである


『サッカーというのは、実にシンプルなゲームだ。総勢22名の男たちが90分間にわたって一つのボールを追いかけまわす。そして、最終的にはドイツ代表が勝利するのだ。』
――ゲーリー・リネカー(BBCのスポーツキャスター/元イングランド代表のキャプテン)

『ドイツ代表の調子がよければ、世界一の称号を勝ち取る。ドイツ代表の調子が悪ければ、決勝戦に進む。』

――ミシェル・プラティニ(欧州サッカー連盟会長/元フランス代表のキャプテン)


1954年に開催されたFIFAワールドカップの決勝戦では、試合が始まってからわずか8分の間にハンガリー代表が西ドイツ代表から2点を奪った。試合が始まる前に、西ドイツ代表がハンガリー代表を倒せるかもしれないと予想している人なんてただの一人もいなかった。いや、ハンガリー代表を倒せるチームがあるなんて誰も考えもしなかった。「マイティ・マジャール」(屈強なるマジャール戦士)の愛称で知られていたハンガリー代表は、前年の1953年にイングランド代表をウェンブリーで行われた親善試合で破っていた。イングランド代表にホームで初めて黒星をつけたのだ。しかしながら、西ドイツ代表は、「勝利を渇望するメンタリティ」をどこよりも備えているチームという座を手放すのを拒んだ。土壇場でのゴールをお手の物とするチームという触れ込みを裏切らなかった。フォワードのヘルムート・ラーンが試合終了6分前にゴールを決めて、西ドイツ代表が逆転勝ちを収めたのである。試合終了のホイッスルが鳴った時のスコアは、3対2。ドイツ(西ドイツ)代表がハンガリー代表を下(くだ)してワールドカップで初優勝を遂げたのだ。その後のドイツ代表は、世界各国の代表チームの中でも屈指の成績を残すに至っている。ワールドカップでの優勝は3回(1954年、1974年、1990年)で、準優勝は4回(1966年、1982年、1986年、2002年)。UEFA欧州選手権での優勝は3回(1972年、1980年、1996年)で、準優勝は3回(1976年、1992年、2008年)。ドイツ代表が今回(2010年度)のワールドカップで優勝できそうかというと、オッズは14倍となっていて、ドイツ代表が4度目の優勝を飾る可能性はそこまで高く見積もられてはいないようだ。しかしながら、これまでの華々しい足跡を踏まえると、ドイツ代表を優勝候補の一角から外す人はほとんどいないだろう。

ドイツ出身でノーベル平和賞受賞者でもあるヘンリー・キッシンジャーは、ドイツ代表が好成績を収めてこれた原因をドイツ人に特有の態度や入念なまでの計画癖に求めている。曰く、「ドイツ代表チームは、戦争への備えを進める時のドイツ参謀本部そっくりだ。試合に際しては、細心の注意を払って前もって計画が立てられる。選手一人ひとりは、攻撃(オフェンス)も守備(ディフェンス)もどちらもこなせるようにトレーニングを積んでいる。いざゴールを奪おうとなると、複雑なパスのやり取りが展開される。脳みそを振り絞れるだけ振り絞って予測や前準備が試みられるだけでなく、骨を粉にし身を砕くほどの努力が払われるのだ」(Kissinger 1986)。

成果の良し悪しを左右する要因は?

サッカーの代表チームの成果をめぐるこれまでの先行研究では、国別の人口規模やGDPの水準、(「学習」の度合いを測る指標として)ワールドカップへの出場回数といった変数に目が向けられてきている(Houston and Wilson 2002)。そして、意外でもないだろうが、たった今挙げた変数が代表チームの成果にプラスに働いていることが見出されている。代表チームに強くなってほしいようなら、国の人口が増えて国が豊かになればその望みを叶えるためにいくらか助けになるわけだ(Hoffmann et al. 2002, Macmillan and Smith 2007, Leeds and Leeds 2009)。

ところで、「スポーツ経済学」と「労働経済学」との間には、はっきりとしたアナロジーを見出すことができる。Kahn (2000) も詳述しているように、プロスポーツは労働市場について研究するためのユニークな機会を提供しているのだ。スポーツの勝敗は、絶対的な力量によってではなく、相対的な力量(対戦相手との力量の差)によって決まる。プロのサッカー選手は、自分のことを一番高く評価してくれるチームにお世話になろうとする。このことはクラブチームに関しては当てはまるが、代表チームには当てはまらない――帰化するという例もあるにはあるが――。代表に選出される選手は、「売り買い」されるわけではない。一国の代表としてプレーするためには、その国の国籍を持っていなければならないという条件があり、どこかの国のA代表に一度でも選出されると、別の国の代表としてプレーすることはできない決まりになっている。代表チームに選出され得る人材の数は、ほぼほぼ外生的に決まっている――国籍保持者に限定される――のだ。

あちこちのクラブの経営陣も念押ししていることではあるが、代表チームでプレーするのがプロのサッカー選手にとって一番大事な仕事かというと、決してそうではない。とは言え、選手としては、代表チームでプレーしたいという思いも間違いなく持っている。それというのも、代表に選ばれると、サッカー選手として箔(はく)が付いて市場価値が上がる――年俸が上がる――からである。それに加えて、代表に選ばれるのは大いに「名誉」なことであって、代表に呼ばれたのにそれを断る選手は滅多にいない。こういったことを考え合わせると、代表チームの成果は、選手たちのスキルによって左右されるのであって、インセンティブには左右されなさそうに思える。

土壇場において露(あらわ)になる「国民性」の違い

代表チームは、チーム・スピリットによって一つに束ねられている。どうしてそうなっているかというと、代表に選ばれた選手たち(の大半)が同じ「国民性」――その具体的な内実は様々であり得るだろうが――を共有しているからである。我々二人の共著論文(van Ours and Van Tuijl, 2010)では、労働市場一般に対する理解を深める助けになるような洞察を得られたらとの期待を込めて、それぞれの代表チームの国民性がサッカーの国際大会での試合結果に影響を及ぼすかどうかを探っている。

我々の論文で特に焦点を当てているのは、サッカーの主要な国際大会における「土壇場でのゴール」である。それはなぜかというと、試合終了間際の土壇場においてこそ、国民性の違いがこの上なく露(あらわ)になるからである。具体的には、ベルギー、ブラジル、イングランド、ドイツ、イタリア、オランダの計6カ国の代表チームが1960年以降にサッカーの主要な国際大会の試合――試合数にして1500試合以上――で奪った(あるいは、奪われた)ゴール(得失点)に分析を加えている。

前後半90分+延長戦

試合終了まで残り1分あるいは残り5分でのゴールの重要性を伝えているのが以下の表1である。我々が分析を加えた試合の総数は1564試合に上(のぼ)るが、試合終了まで残り1分で点(ゴール)を奪ったケースはそのうちの4%(63試合)、試合終了まで残り5分で点を奪ったケースはそのうちの13.9%(217試合)。 反対に、試合終了まで残り1分で点を奪われたケースは全体の1.9%(29試合)で、試合終了まで残り5分で点を奪われたケースは全体の6.8%(106試合)という結果になっている。冒頭で「・・・(略)・・・そして、最終的にはドイツ代表が勝利するのだ」というリネカーの発言――ドイツ代表の粘りに対する諦念が込められた発言――を引用したが、表1はその発言を裏付ける証拠の一つともなっている。ドイツ代表が試合終了まで残り1分でゴールを奪った試合は、全体の5.5%(344試合中19試合)に上っており、6カ国の平均(4%)を大きく上回っているのだ。とは言え、オランダ代表はさらにその上を行っている。オランダ代表が試合終了まで残り1分でゴールを奪った試合は、全体の5.9%(253試合中15試合)に上っているのだ(図1もあわせて参照されたい)。

表1. 試合終了間際の土壇場にゴールが生まれた試合数(For=得点した試合/Against=失点した試合)


図1. 時間帯ごとの得失点の分布(実線=得点/点線=失点)


我々の論文では、それぞれの代表チームが試合終了まで残り1分でゴールを奪う確率を導き出すために、線形のシンプルな確率モデルの推計も行っている。それによると、イングランド代表、ドイツ代表、オランダ代表の三チームは、ブラジル代表と比べると、試合終了まで残り1分でゴールを奪う確率が4.5ポイント(4.5パーセントポイント)ほど高いとの結果が得られている。4.5ポイントの差が甚(はなは)だしい違いを生むことがある。試合終了まで残り1分でゴールを奪うと、その試合に勝つ確率が26ポイント(26パーセントポイント)ほど高まる一方で、負ける確率が12~14ポイント(12~14パーセントポイント)ほど低くなるのだ。我々が推計した線形のシンプルな確率モデルによると、試合終了まで残り5分でゴールを奪う(得点する)確率が一番高いのはオランダ代表であり、試合終了間際の土壇場(試合終了まで残り1分および残り5分)でゴールを奪われる(失点する)確率が一番高いのはドイツ代表という結果が得られている。

ところで、試合がホーム(自国)で行われるかどうかによって試合結果に違いが生まれるだろうか? 我々の分析結果によると、ホームで試合をすると、相手(アウェイ)チームからゴールを奪う(得点する)確率が4.2ポイント(4.2パーセントポイント)ほど高まる一方で、相手チームにゴールを奪われる(失点する)確率が2.3ポイント(2.3パーセントポイント)ほど低くなるようである。さらには、ホームで試合をすると、試合に勝つ確率が20ポイント(20パーセントポイント)ほど高まる一方で、試合に負ける確率が12~16ポイント(12~16ポイントポイント)ほど低くなるようである。

PK戦

前後半90分が終わった段階で引き分けで、延長戦でも決着がつかないようだと、PK戦で勝敗が決められることになる。前回(2006年度)もそうだったが、ワールドカップの決勝戦でもPK戦までもつれこむことが時にある。ワールドカップおよびコンフェデレーションズカップでのPK戦の結果をまとめたのが以下の表2である。イングランド代表、イタリア代表、オランダ代表はPK戦の成績が振るわず、それに比べてブラジル代表はずっと優れた成績を残している。ドイツ代表も抜群の成績を残しており、PK戦に5回――フランス代表、メキシコ代表、アルゼンチン代表を相手にそれぞれ1回、イングランド代表を相手に2回――勝っている。(ワールドカップおよびコンフェデレーションズカップで)PK戦を一度しか経験していないベルギー代表を除外すると、ドイツ代表はワールドカップでもUEFA欧州選手権でもPKの成功率――ワールドカップでのPKの成功率は94%、UEFA欧州選手権でのPKの成功率は90%――が一番高いという結果になっている。

表2. PK戦の結果
データの出所:Penaltyshootouts.co.uk


総括

ゴールを奪えるかどうかは、チームのメンバー全員の努力にかかっている――優秀なストライカーがいれば、みんなの努力が実を結びやすくなる(ゴールがいくらか生まれやすくなる)としても――。それに加えて、ゴールを奪えるかどうかは、試合を注視している観客の後押しによっても左右される。一国の代表チーム同士で争われる重要な国際大会では、ホームアドバンテージがはっきりと確認できるのだ。

サッカーの試合でゴールが決まるかどうかは偶然によって左右される面もある。それだからこそ、観戦していてワクワクさせられるわけだが、代表チームの成果には明確な差を見出すことができるのも確かだ。ブラジル代表やドイツ代表は、一貫して優れた成果を残しているのだ。サッカーの強国の間での成果の差は徐々に縮まってきてはいるが、1960年~2009年の期間に関する限り、ブラジル代表は、勝ち星の面でどのチームよりも――例えば、イタリア代表/ドイツ代表/イングランド代表/オランダ代表よりも――はるかに優れた実績を残している。

それぞれの代表チームは、勝利数や得失点数だけでなく、勝ち方や点の取り方の面でも違いがある。ブラジル代表やイタリア代表は、試合に負けるのをよしとしないところがある。そのため、土壇場でのゴールを奪うために労力を割こうとしない。ゴールを奪うために労力を割くと、(守備が甘くなって)反対にゴールを奪われてしまう危険性があるからだ。その一方で、イングランド代表、ドイツ代表、オランダ代表は、リスクを恐れないところがある。ゴールを奪われてしまう危険を冒してでも、土壇場でのゴールを奪うために労力を割くのを厭(いと)わないのだ。そして、土壇場でのゴールを奪おうと必死になるあまり、それと引き換えにゴールを奪われてしまう危険性が大幅に高まってしまうのはドイツ代表だけ・・・という結果が我々の分析を通じて得られている。ドイツ代表がどんな犠牲を払ってでも勝ちを欲しているのは、どうやら間違いないようなのだ。

試合に勝てる確率は、チームの質(スキルの高さ)によっておおよそ決まってくることは言うまでもない。しかしながら、ホームアドバンテージ、運といった要素もそれなりに試合の行方を左右すると言えそうだ。そして、「国民性」が物を言うこともあり得るようだ。とは言え、土壇場でのゴールは、そう頻繁には生まれない。そんなわけで、土壇場でのゴールを引き寄せる力が備わっているらしいゲルマン魂が、今回のワールドカップの帰趨(きすう)に影響を及ぼす可能性は小さそうだ――無視できるほど小さくはないだろうが――。

<参考文献>


●Hoffmann, R, CG Lee and B Ramasamy (2002), “The socio-economic determinants in international soccer performance”(pdf), Journal of Applied Economics, 5:253-272.
●Houston, R, DP Wilson (2002), “Income, leisure and proficiency: an economic study of football performance”, Applied Economics Letters, 9:939-943.
●Kahn, LM (2000), “The sports business as a labor market laboratory”(pdf), Journal of Economic Perspectives, 14:75-94.
●Kissinger, H (1986), “The World Cup according to character”, Los Angeles Times,29 June.
●Leeds, MA and EM Leeds (2009), “International Soccer Success and National Institutions”, Journal of Sports Economics, 10:369-390.
●Macmillan, P and I Smith (2007), “Explaining international soccer rankings”, Journal of Sports Economics, 8:202-213.
●Van Ours, JC and M A van Tuijl (2010), “Country-Specific Goal-Scoring in the “Dying Seconds” of International Football Matches”, CEPR Discussion Paper 7873.

2022年11月5日土曜日

Matthew E. Kahn&Matthew J. Kotchen 「景気後退に備わるクラウディング・アウト効果 ~失業率が高まると、環境問題への関心は低下する?~」(2010年8月21日)

Matthew E. Kahn and Matthew J. Kotchen, “Trends in environmental concern as revealed by Google searches: The chilling effect of recession”(VOX, August 21, 2010)
環境問題に対する世間の関心は、奢侈財(ぜいたく品)のような性質を持っているのだろうか? Googleで「失業」と「地球温暖化」という2つのキーワードがどれだけ検索されているかを時系列に沿って調べたところ、景気後退は、気候変動問題への関心を低下させる一方で、失業問題への関心を高める効果を備えていることが判明した。さらには、景気後退には、地球温暖化否認論(「地球温暖化なんて起こってない!」)の勢いを強める効果が備わっている場合もあるとの結果も得られている。

Googleインサイト〔訳注;Googleインサイトのサービスは、現在ではGoogleトレンドに統合されている〕は、Googleのネット検索サービスで特定のキーワードが地域別にどれだけ検索されたかを時系列に沿って調べることを可能とするオンラインツールであり、誰もが気軽に利用できる。これまでの一連の研究によると、Googleの検索データは、病気の流行(Pelat et al. 2009, Valdiva and Monge-Carella 2010)や経済活動(Choi and Varian 2009, D’Amuri and Marcucci 2009, Varian 2009)の予測に役立てることができる強力なツールであることが明らかとなっている。アメリカ経済は、2007年の終盤頃を境にして、1930年代の大恐慌以来最も深刻な景気後退に見舞われることになったわけだが、現下のかような経済状況は、Googleの検索データを使って、景気循環と世論との間にどのような関係が成り立っているかを探る上でまたとない機会を提供していると言えるかもしれない。

もう少し具体的に突っ込むと、ここ最近のアメリカでは、景気が大きく低迷しているだけではなく、環境問題に対する国民の関心も大いに薄れつつある様が確認できる。景気の悪化(景気後退)は、環境問題に関する世論の変遷に一体どの程度の影響を及ぼすことになるのだろうか?

まさにこの問題の解明を意図しているのが我々二人がつい最近行ったばかりの研究(Kahn and Kotchen 2010)だが、環境問題――その中でも、現在最もホットな争点の一つである気候変動の問題――に関する世論の変遷を跡付けるために、Googleの検索データの助けを借りた。Googleインサイトのサービスを利用して、2004年1月から2010年2月までの間に、「地球温暖化」(“global warming”) と「失業」(“unemployment”) という2つのキーワードがアメリカ国内のそれぞれの州でどれだけ検索されたかを週次データとして集計したのである。そして、その上でこう問うたのである。ある州で失業率が変化すると、その州でのこれら2つのキーワードの検索状況にはどのような影響が及ぶだろうか?

さて、その答えはというと、ある州で失業率が上昇すると、その州では「地球温暖化」というキーワードの検索が減る一方で、「失業」というキーワードの検索が増える傾向にあったのである。ネット検索(という実際の行動)を通じて顕示された人々の選好に照らす限りでは、景気後退は、失業問題に対する人々の関心を高める効果を持つ一方で――このことは特段驚くことでもないだろう――、環境問題に対する人々の関心をクラウドアウトする(弱める)効果を備えている可能性があると言えそうである。さらには、これら2つの効果の量的な大きさはほぼ同等であるとの興味深い結果も得られており、失業問題に対する関心は、環境問題に対する関心をクラウドアウトする効果がある〔訳注;失業問題に対する関心が高まるのと同じ分だけ、環境問題に対する関心が低下する、という関係にある〕との解釈も無理なく成り立つと言えそうである。

赤い州と青い州 ~景気後退に備わるクラウディング・アウト効果がより顕著なのは、どちらの州?~

アメリカ国内では、「赤い州」(“red states”)〔訳注;共和党を支持する傾向が強い保守的な土地柄の州〕と 「青い州」(“blue states”)〔訳注;民主党を支持する傾向が強いリベラルな土地柄の州〕との間で、環境問題をめぐってイデオロギー面での対立があることはよく知られているところだが、我々の研究では、州ごとの政治的なイデオロギーの違いが、失業率(の変化)とGoogleを使った検索活動(に見られる変化)との間に成り立つ関係にどういった影響を及ぼすかについても検証している。その検証を行うためには、それぞれの州の政治的なイデオロギーの違いを測る必要があるが、2004年の大統領選挙における(民主党側の候補である)ジョン・ケリー候補の州別の得票率のデータを集めて、それを州ごとの政治的なイデオロギーの違いを測る尺度の一つとして用いている。さて、その検証の結果はというと、民主党寄りの傾向が強い州ほど、(その州の失業率の上昇に伴って)「地球温暖化」というキーワードの検索が減る度合いが大きくて、「失業」というキーワードの検索が増える度合いが小さいことが判明した。民主党寄りの傾向が強い州ほど、(その州の失業率の上昇に伴って)「地球温暖化」というキーワードの検索が減る度合いが大きいという結果は、一見すると直感に反するように思えるが、そうなる理由の一つは、共和党支持者は、民主党支持者と比べると、気候変動問題にそもそもあまり関心が無く、そのため、気候変動問題に対する関心が低下する余地が乏しいためなのかもしれない。

失業率が高まると、地球温暖化を否認する声が勢いを増す?

我々の研究では、失業率の変化に応じて、気候変動の問題に関する世論が州ごとにどのように変化するかを探るために、Googleの検索データ以外にも、アメリカ全土を対象に2度にわたって行われた聞き取り調査――この聞き取り調査では、気候変動問題について同じ質問がなされている――の結果も利用している。聞き取り調査の結果を利用した分析によると、ある州の失業率が上昇すると、その州で暮らす住民が地球温暖化の進行を認める(地球温暖化が進行していることを認める)確率が低下し、地球温暖化の進行を認める住民もその意見にどれだけ自信があるかと問われると、(失業率が上昇する前と比べて)弱気になりがちであることが判明した。さらには、ある州の失業率が上昇すると、その州の住民は「米議会は、地球温暖化を防ぐための対策を緩(ゆる)めるべきだ」との意見に傾くという結果も得られている。また、カリフォルニア州で毎月実施されている計11回に及ぶ聞き取り調査――この聞き取り調査では、「’経済’, ‘環境’, ‘仕事’, ‘教育’, ‘健康’, ‘移民’, ‘財政赤字’, ‘税金’, ‘その他’の中で、カリフォルニア州が目下抱えている一番重要な問題はどれだと思いますか?」という質問が問われている――の結果を利用した分析によると、カリフォルニア州での失業率が上昇すると、「環境」問題を一番重要な問題に選ぶ(カリフォルニア州が抱えている一番重要な問題は、「環境」問題だと答える)州民の数が大幅に減るとの結果が得られている。

Googleの検索データと聞き取り調査の結果を利用した我々の研究は、失業率の変化が環境問題に対する人々の関心に及ぼす影響を実証的に計測することを意図したはじめての試みである。ところで、我々が見出した結果――失業率が高まると、環境問題への関心が低下する――の背後では、どのようなメカニズムが働いているのだろうか? 心理学的な説明を持ち出すと、我々が見出した結果は、マズローの欲求段階説(Maslow 1943)と整合的であり 〔訳注;この点について、この論説の基となっている論文(ジャーナル掲載版)(pdf)では、次のように論じられている。「〔マズローの欲求段階説によると〕、人間というのは、生きていく上で欠かせない基本的な欲求が満たされてはじめて、長期的で抽象的な話題に関心を持つようになると見なされている。この考えに従うと、例えば、景気後退の最中では、人々は気候変動のようなその影響が不確実で長期的な脅威に対してよりは、雇用のような問題に関心を集中させることになるかもしれない。」(pp. 258)/「人々は、景気後退の只中では、地球温暖化のような抽象的でその影響が不確実な長期的な脅威に対してよりも、その日その日の幸せに関心を注ぐ傾向にあるようである。職を失うかもしれないという恐れ・・・(略)・・・のために、経済の短期的な情勢やマクロ経済の不確性に関心が向ちがちになるのだろう。このような行動パターンは、マズローの欲求段階説に依拠した心理学の理論と整合的である。」(pp. 269~270)〕、経済学的には、「環境問題への関心は、奢侈財(ぜいたく品)のような性質を備えている」というように説明できるだろう。さらには、メディアが、それ自体原因の一つあるいは増幅要因の一つとして、重要な役割を果たしている可能性もある〔訳注;この点について、この論説の基となっている論文(ジャーナル掲載版)(pdf)では、次のように論じられている。「〔人々の関心は、景気後退の最中においては、環境問題よりも雇用問題に注がれるようになる可能性があるわけだが〕、メディアは、国民の関心にそのようなシフトが生じることを予期して、景気後退に関する話題の取り扱いを増やす一方で、気候変動をはじめとした環境問題の取り扱いを減らそうとするインセンティブを持つことになる。・・・(中略)・・・メディアの報道内容は、国民がその都度どんな話題を優先的に重視しているかによって左右されるという意味で、国民の関心を反映している可能性がある一方で、メディアには情報の拡散を通じて国民の関心(どんな話題を重視するか)に影響を及ぼす力があることも認識しておかねばならない。」(pp. 270)。つまりは、こういうことが言いたいのだろう。メディアとしては、商業上の理由から、視聴者からそっぽを向かれないために視聴者におもねろうとする(視聴者の関心が高い話題を優先的に取り上げようとする)インセンティブがある。そのため、景気が後退すると環境問題に対する人々の関心が低下する(その一方で、失業問題への関心が高まる)ことになれば、それに応じてメディアで環境問題が取り上げられることも少なくなる。つまりは、メディアで環境問題の取り扱いが小さくなるのは、視聴者が環境問題への関心を失った結果であると言える。しかしながら、メディアで環境問題の取り扱いが小さくなると、視聴者の側としては、環境問題はそれほど重要な問題ではないのではないかと考えるようになるかもしれない。つまりは、メディアで環境問題の取り扱いが小さくなることで、環境問題に対する人々の関心の低下がさらに促されるという影響関係もあり得るわけで、メディア自身も環境問題に対する人々の関心の低下に一役買っている可能性があることになる〕。

メディアの報道に関連して、以下の2つの図をご覧いただきたい。この2つの図は、2006年1月から2010年1月までの間に、メディアで地球温暖化問題と失業問題がどのくらい取り上げられたかを追跡した結果をまとめたものである。図1は、主要な全国紙での報道の様子を時系列で辿ったものだが、2007年の半ば頃から、地球温暖化問題の取り扱いが減少傾向を辿っていることが見て取れるだろう。それと時を同じくして、失業問題の取り扱いが上昇傾向に転じていることもわかる。図2は、テレビのニュース番組で地球温暖化問題と失業問題がそれぞれどのくらい取り上げられたかを月間の放送時間数(単位は分)で測ったものだが、2007年11月頃までは、地球温暖化問題も失業問題も放送時間数がほぼ同じくらいであることがわかる。しかしながら、2007年11月以降になると、地球温暖化問題の取り扱い(放送時間数)が次第に減っていく一方で――2009年の終わり頃に、地球温暖化問題の報道が突如として急増しているが、これはコペンハーゲンで第15回気候変動枠組条約締約国会議(COP15)が開催されたためである――、景気後退の影響がはっきりと表れ出した2008年の秋頃を境に、失業問題の取り扱い(放送時間数)が大幅に増え出し、その後もずっとその状態(ニュース番組での高い注目)が続いていることがわかるだろう。


図1 新聞紙上における「地球温暖化」問題(点線)と「失業」問題(実線)の取り扱いの変遷〔原注;主要な5つの全米紙の記事で「地球温暖化」問題と「失業」問題がどれだけの数取り上げられているかを月ごとに集計したもの。データは、Googleニュースでの検索結果を基に作成〕



図2 テレビのニュース番組での「地球温暖化」問題(点線)と「失業」問題(実線)の取り扱いの変遷〔原注;米5大ネットワークで放映されているニュース番組で「地球温暖化」問題と「失業」問題がどれだけの時間取り上げられたかを月ごとに集計したもの(単位は分)。データは、Vanderbilt Television News Archiveでの検索結果を基に作成〕


景気後退の到来に伴って弱まりゆく「政治的な意志」の力

自然環境に対する人々の選好(好み)がどのように形作られるかを理解するためには、さらなる研究が必要とされていることは確かだが、我々の研究は、(自然環境に対する人々の選好の性質に関して)はっきりとしたパターンの一つを明らかにしている。失業率が高まると――少なくとも、今回の景気後退の過程で記録された水準にまで失業率が上昇すると――、環境問題に対する人々の関心が低下するというのがそれである。我々が見出したこの発見は、景気後退に備わるコストを探る一連の研究に対する新たな貢献という側面も持っている。職を失った労働者や(住宅ローンの返済ができずに)住宅を差し押さえられてマイホームを失った一家が味わう苦しみについてはメディアでも広く取り上げられており、マクロ経済学者の間でも景気後退に伴う様々なコストについて幅広く論じられているところである。その一方で、環境経済学の分野に目をやると、景気後退には(銀緑色に輝く)「ほのかな希望の光」(“green silver lining”)も備わっていると指摘する意見も見られる。経済活動が低迷すれば、それに伴って大気汚染も軽減されるという意味で、景気後退には好ましい面もあるというのだ(Kahn 1999, Chay and Greenstone 2003)。

しかしながら、我々の研究は、景気後退に備わる「ほのかな希望の光」の作用を打ち消す方向に働く力の存在を仄めかしている。失業率が高まると、環境問題に対する人々の関心が低下するということになれば、外部性(外部不経済)の内部化を促すために既存の規制の適用を強化したり新たな環境規制を導入したりする上で必要となる「政治的な意志」の力が景気後退の到来に伴って弱まることになるかもしれないのだ。その実例の一つとしてカリフォルニア州のエピソードを取り上げると、州の失業率が5.5%を上回っている中で、州議会下院法案32号(「地球温暖化解決法」)の履行凍結を求める提案(「プロポジション23」)の是非を問う住民投票が近々実施される予定になっている〔訳注;住民投票では、「地球温暖化解決法」の履行凍結は否決されたとのこと(「米加州、温暖化阻止法凍結を拒否=再生エネルギー促進派は安堵」ロイター、2010年11月4日)〕。アメリカ全土レベルでも、野心的なエネルギー・環境規制の導入に向けた動きがここにきて完全に勢いを失っている感がある。ヨーロッパでも状況は似たようなものだが、ヨーロッパ各国において環境問題への関心と景気循環との間にどのような関係が成り立っているかを探ることは今後の課題の一つである。

<参考文献>


●Chaoi, H and H Varian (2009), “Predicting the Present with Google Trends(pdf)”, Working paper, Google Inc.
●Chay, K and M Greenstone (2003), “The Impact of Air Pollution On Infant Mortality: Evidence From Geographic Variation In Pollution Shocks Induced By A Recession”, The Quarterly Journal of Economics, 118:1121-1167.
●D’Amuri, Francesco and Juri Marcucci (2009), “The predictive power of Google data: New evidence on US unemployment”, VoxEU.org, 16 December.
●Kahn, ME (1999), “The Silver Lining of Rust Belt Manufacturing Decline”, Journal of Urban Economics, 46:360-76.
●Kahn, ME and MJ Kotchen (2010), “Environmental Concern and the Business Cycle: The Chilling Effect of Recession”, NBER Working Paper 16241.
●Maslow, AH (1943), “A Theory of Human Motivation”, Psychological Review, 50:370-396.
●Varian, Hal (2009), “Doing economics at Google”, VoxEU.org, 8 May, Interview by Romesh Vaitilingam.
●Pelat, C, C Turbelin, A Bar-Hen, A Flahault, and A Valleron (2009), “More Diseases Tracked by Using Google Trends”, Emerging Infectious Diseases, 15:1327-1328.
●Valdivia, A and S Monge-Corella (2010), “Diseases Tracked by Using Google Trends, Spain”, Emerging Infectious Diseases, 16:168. 

2022年11月3日木曜日

Esther Duflo 「中国における一人っ子政策の諸帰結」(2008年8月18日)

Esther Duflo, “China’s demographic imbalance: Too many boys”(VOX, August 18, 2008)

中国における「一人っ子政策」は、1980年代から90年代にかけて出生性比(出生児の男女比)を急激に高めることになった。「一人っ子」世代が大人になるにつれて、犯罪の増加をはじめとした様々な問題が表面化し始めている。


中国は、共産主義の過去から徐々に脱却しつつある最中にあるが、それと同時に、1980年代から90年代に埋め込まれた時限爆弾が今まさに破裂しそうな瀬戸際に立たされてもいる。かつての人口政策(人口抑制策)の影響が徐々に表面化し始めているのだ。

中国における人口政策として最も知られているのは、何と言っても「一人っ子政策」である。中国で一人っ子政策が開始されたのは、1978年。それ以降、何度か修正が加えられたものの、今もなお続行中である。現状では、夫婦がどちらとも1人っ子の場合は、子供を2人まで授かることが許されている。農村部に限って言うと、第1子が女児であればもう1人子供をもうけてもよいことになっている。しかしながら、1980年代から90年代にかけては――地域ごとに若干の違いはあるものの――制度の運用が厳格で、「上限数」を超える子供をもうけた夫婦には罰則が科せられた。罰金を支払わねばならなかっただけではなく、「上限を超過した」子供の分の教育費や医療費を全額自己負担せねばならなかったのである。

一人っ子政策は鄧小平の指揮によって導入されたが、この積極的な産児制限策はそれまでの毛沢東時代における方針――「人が多いのは、いいことだ」(“more people, more power”)――と真っ向から対立するものだった。中国の未来は経済をうまく管理できるかどうかにかかっており、経済を管理する上では産児制限が重要な鍵を握っていると考えて、鄧小平は一人っ子政策を推進したのである。

産児制限という基準に照らす限りでは、一人っ子政策は大きな成功を収めたと言える。しかしながら、中国は、男児選好(男児を尊ぶ伝統)が根強く残っている国であったという事情も重なって、一人っ子政策は、出生性比(出生児の男女比)に大きな歪みを生む格好となってしまった。さらには、胎児の性別判断が技術的に可能となった結果として、男女を産み分けるための中絶手術が広まることにもなったのであった。

男児選好、女児の中絶、幼い女児の高い死亡率といった現象は、中国に特有というわけではないし、一人っ子政策がすべての元凶というわけでもない。同様の現象は、インド、台湾、パキスタンといった国々でも見られるし、それらの国々からアメリカに移住した移民の間でも広く観察されている〔原注;詳しくは、以下の論文を参照されたい。 ●Jason Abrevaya(2009), “Are There Missing Girls in the United States? Evidence from Birth Data”(American Economic Journal: Applied Economics, vol.1(2), pp. 1-34)/●Almond, Doug and Lena Edlund(2008), “Son-biased sex ratios in the 2000 United States Census”(Proceedings of the National Academy of Sciences, vol.105, pp. 5681-5682)〕。しかしながら、一人っ子政策は、男児選好を持つ(男児を授かりたいと望む)夫婦に第1子(であり、授かることが許されている唯一の我が子)が女児とはならないように「強いた」結果として、男女比の歪みを加速させる役割を果たした。例えば、産児制限が実施されていない台湾では、1986年に中絶が合法化されてから男女の産み分けが盛んになったが、中絶手術が試みられているのはあくまでも第3子以降であることがわかっている〔原注;詳しくは、次の論文を参照されたい。 ●Lin, Ming-Jen, Liu, Jin-Tan and Qian, Nancy(2008), “More women missing, fewer girls dying: The impact of abortion on sex ratios at birth and excess female mortality in Taiwan”, CEPR Discussion Paper 6667.〕。その一方で、中国では、制度の運用が省長の裁量にある程度委ねられていて、80年代以降になると、第1子が女児であれば第2子の出産が認められるようになった省も出てきたが、第1子に関しては出生性比(出生児の男女比)は標準値とほぼ同じなのに、第2子に関しては出生性比が飛びぬけて高かった(女児よりも男児の数が飛びぬけて多かった)のである〔原注;詳しくは、次の論文を参照されたい。 ●Nancy Qian, “Quantity-Quality: The Positive Effect of Family Size on School Enrollment in China”, Brown University mimeograph.〕。

一人っ子政策に加えて、男児選好や中絶手術の普及といった要因が重なった結果として、中国では1980年代から90年代にかけて男児の数が女児の数を大きく上回ることになった。1978年の時点では、100人の女児に対しておよそ102人の男児が存在していた――男児の数が女児の数の1.02倍――が、1998年の時点になると、100人の女児に対して男児が112人以上存在する――男児の数が女児の数の1.12倍以上――までになったのである。今現在はというと、100人の女児に対して120人もの男児が存在しており――男児の数が女児の数の1.2倍――、数にして男児が女児よりも3700万人も多くなっているのである。

「一人っ子」世代も年をとり、続々と大人の年齢に達しつつある(例えば、1980年に生まれた子供は、2008年現在は28歳)。それに伴って、出生性比の歪みの影響が徐々に表面化しつつある。例えば、16歳~25歳の年齢層に目を向けると、100人の女子に対しておよそ110人の男子がいる計算――男子の数が女子の数の1.1倍――になるが、女子の数が相対的に少ないせいで、若い男子が結婚相手を見つけるのがますます難しくなっている。さらには、若い男子――とりわけ、独身の男子――は、若い女子に比べると、行動面で問題を抱えがちで、犯罪を犯しやすいと言われている。例えば、アメリカの西部開拓時代に暴力に向かう傾向が強く見られた理由は、(若い男子が中心となって体現していた)フロンティア精神(“frontier town” mentality)にその原因があるとはよく指摘されているところである。中国では1998年以降に犯罪件数が平均して年率13%のペースで増えているが、逮捕者の70%が16歳~25歳の若者で、そのうちの90%は男性という結果になっている。

犯罪が増えているとはいっても、そのうちのどのくらいが若い男子の数が増えたせいなのだろうか? この問いに真っ向から立ち向かっているのが、中国とアメリカの研究者が手を組んで取り組んでいる最近の研究である〔原注;Lena Edlund, Hongbin Li, Junjian Yi, and Junsen Zhang, “Sex ratio and crime: Evidence from China’s one-Child Policy(pdf)”(IZA Discussion Paper No. 3214, December 2007;その後、The Review of Economics and Statistics誌に掲載)〕。この研究では、1998年~2004年の期間を対象に、一人っ子政策が厳格に運用されている地域とそうではない地域(第1子が女児であれば第2子の出産が認められている地域。これらの地域では、第1子の出生性比は標準値とほぼ変わらない)の犯罪件数がそれぞれどのくらい増えているかが比較されているが、犯罪件数の増加分の7分の1は一人っ子政策〔訳注;一人っ子政策の影響で、若い男子が同世代の女子よりも大幅に増えていること〕によって説明できるとの結論が導き出されている。

人口全体に占める若い男子(犯罪予備軍)の割合が高まっていることに加えて、若い男子が結婚相手を見つけにくくなっていることも犯罪が増えている理由の一つとなっている可能性がある。

その手掛かりをいくつか与えているのが、ベトナム帰還兵を対象にした長期にわたる調査である(調査が行われたのは1998年。この調査については、最近のニュー・リパブリック誌でも取り上げられている〔原注;“No Country for Young Men” by Mara Hvistendahl, New Republic, July 9, 2008.〕)。その調査によると、被験者として選ばれた帰還兵の男性が結婚するとテストステロンの濃度が低下した一方で、離婚するとテストステロンの濃度は増加したという。加えて、調査期間中にずっと独身だった男性のテストステロンの濃度は高い水準を保っていたという。テストステロンは、攻撃性や暴力と深い関わりのある男性ホルモンの一種として知られている。 独身の男性は、テストステロンの濃度が高いせいで、とりわけ攻撃的になってしまうのかもしれない。

一人っ子として育てられたことも何かしら関係があるかもしれない。第1子が女児であれば第2子の出産が認められている地域に暮らしている第1子の(弟ないしは妹がいる)少女は、子供の出産が1人しか認められていない地域に暮らしている子供(一人っ子)に比べて、学校に在籍する期間が長い傾向にあるという〔原注;詳しくは、次の論文を参照されたい。 ●Nancy Qian, “Quantity-Quality: The Positive Effect of Family Size on School Enrollment in China”, NBER Working Papers No. 14973.〕。兄弟姉妹の数が増えると、家族内での競争が生じて機会(教育を受ける機会)が奪われるわけではなく、むしろお互いのためになるようである。「1人っ子」世代は、「孤独な」世代と言えるのかもしれない。

ともあれ、将来的に一人っ子政策の運用が和らげられたとしても、中国は今後しばらくの間にわたって過去の一人っ子政策の影響に頭を悩まされ続けることだろう。

Stephan Klasen 「『消えた女性』の謎を巡る一大論争 ~B型肝炎 vs 性差別~」(2008年8月28日)

Stephan Klasen, “Missing women in South Asia and China: Biology or discrimination?”(VOX, August 28, 2008)

発展途上の国々では、1億人を超える女性が「消えて」しまっている。その原因は「B型肝炎」にあるとの説がここにきて大きな注目を集めている。発展途上の国々――とりわけ、中国――で出生性比が高い(男児が相対的に多く生まれている)原因は、両親がB型肝炎のキャリアだからだというのだ。本稿では、「B型肝炎原因説」に寄せられた数多くの反論を要約する。B型肝炎ではなく、性差別こそが「消えた女性」の原因なのだ。

20年ほど近く前になるが、アマルティア・セン(Amartya Sen)が「消えた女性」問題を提起して広く話題を呼ぶことになった。セン曰く、南アジア、東アジア、中東、北アフリカといった地域では女性の死亡率が相対的に高くて、そのために1億人を超える女性が「消えて」しまっているというのだ〔原注;Sen(1989, 1990)〕。「消えた女性」の数(規模)についてはその後の研究で修正が加えられたものの、センの主張の妥当性は高く支持されている――詳しくは、Coale(1991)や Klasen(1994)を参照されたい――。これらの地域で女性が「消えて」しまった原因は、医療サービスや食事へのアクセスの面で女性が差別されていることに加えて、男女の産み分けを可能とする中絶手術が普及したこと〔訳注;妊婦のお腹の中にいる赤ちゃんが女の子だとわかると、中絶が選ばれる、という意味〕に求められるというのが通説となっている。

「消えた女性」の原因はB型肝炎にあり?

2005年に『ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー』誌に掲載された論文で、通説とは大きく異なる主張が唱えられた。論文の著者であるエミリー・オスター(Emily Oster)によると、多くの女性が「消えた」とされている地域ではB型肝炎ウイルスの感染者が多く、両親がB型肝炎ウイルスのキャリアだと出生児の男女比(出生性比〔訳注;出生性比というのは、新生女児100人あたりの新生男児数のこと。例えば、出生性比が1.05だと、女児100人に対して男児が105人生まれる計算になる。出生性比の値が高くなるほど、新生児全体に占める男児の割合が増えることになる〕)が高くなる(男児が生まれやすくなる)傾向にあるという。そのこと踏まえると、「消えた」とされている女性のうちの47%~70%はそもそもこの世に生まれていなかった可能性があるというのである。 つまりは、南アジアや東アジアで女性が「消えて」しまった原因の多くは、「性差別」ではなく、「生物学的な要因」(B型肝炎)に求められるというわけだ。女性が「消えた」原因を見直す必要性にとりわけ迫られたのは、中国だった。中国は、B型肝炎ウイルスの感染率が特に高い地域だったからである。中国における「消えた女性」のうちの75%~86%がB型肝炎によるものというのがオスターの下した結論だった。

オスターの主張が仮に正しいとすると、性差別の問題がこれまで思われていたほど酷いものではなかったことが示唆されるという意味で、良い報せということになろう。しかしながら、それと同時に、(オスターは言及していない)悪い報せもいくつかある。女性が「消えた」地域――中国、インド、台湾など――では、1980年代から1990年代にかけてB型肝炎の予防接種が開始されたが、オスターの主張が正しければ、この間に(予防接種のおかげでB型肝炎のキャリアが減るのに伴って)出生性比(ひいては、人口性比〔訳注;人口性比(人口全体の男女比)というのは、女性100人あたりの男性数のこと。例えば、人口性比が1.05だと、女性100人に対して男性が105人いる計算になる。人口性比の値が高くなるほど、人口全体に占める男性の割合が増えることになる〕)が急低下して、「消えた女性」の数も大きく減ることになったはずである。実際のところは、どうだったか? 南アジアのいくつかの国では確かに出生性比が低下したが、とても「急低下」と呼べるようなものではなかった。オスターの主張が正しいとすると、出生性比が緩やかにしか低下しなかったのは、(B型肝炎のキャリアが減ることに伴う恩恵を打ち消すようにして)この間に性差別がさらに酷くなったためではないかという可能性が浮かび上がってくることになる。

オスターの論文が発表されると、彼女の主張を高く評価する声と彼女の主張に異議を唱える声とが入り乱れるかたちで、激しい論争が繰り広げられることになった〔原注;Das Gupta(2005, 2006)、Ebenstein(2008)、Lin and Luoh(2008)、Abrevaya(2005)、Klasen(2008)を参照されたい〕。オスター自身もこの問題に取り組み続けた。そして、他の研究者による強力な反論に加えて、自らの継続調査の結果も踏まえて、最終的には持説を撤回するに至ったのであった。つまりは、B型肝炎は、中国(ひいては、南アジア)における歪んだ人口性比〔訳注;人口全体に占める男性の割合が高くなっている事実〕や「消えた女性」の謎を解く鍵ではないとの結論に至ったのである。

オスター論文への反論;B型肝炎は「消えた女性」の謎を解く鍵ではない

「消えた女性」の謎を解く鍵をB型肝炎に求めたオスターは、どのような証拠を携えていたのだろうか? その一方で、オスターの主張に異議を唱えた論者は、どのような反証を挙げたのだろうか? 双方の証拠をどのように解釈したらいいのだろうか?

オスターは、「消えた女性」の謎を解く鍵をB型肝炎に求めるにあたって、主に4つの証拠を頼りにしている。まず1つ目の証拠は、男女の産み分けを可能とする中絶手術が普及する前からずっと一貫して、中国における出生性比も、アメリカに移住した中国人の出生性比も、標準値よりも飛びぬけて高かったという事実である。2つ目の証拠は、(中国や南アジアの国々を除いた)世界各地のミクロデータの分析を通じて得られたもので、両親がB型肝炎のキャリアだと、そうでない場合と比べて、出生性比が高くなる(男児が生まれやすくなる)傾向にあることが見出されたという。3つ目の証拠は、アラスカの原住民と台湾人を対象にしたB型肝炎の予防接種の効果を追跡した時系列データの分析を通じて得られたもので、B型肝炎の予防接種が実施された後に出生性比が低下傾向を辿っていることが見出されたという。最後に4つ目の証拠は、クロスカントリー分析(国際比較分析)を通じて得られたもので、B型肝炎ウイルスの感染率が高い地域ほど、出生性比が高いという関係が見出されたという。一見すると、多岐にわたる数々の証拠がオスターの主張を支持しているように思える。

しかしながら、その後の論争の過程で、オスターの主張を支えているか見える証拠に重大な問題が潜んでいることが指摘されると同時に、オスターの主張を覆すような証拠も徐々に明らかになってきた――論争の詳細については、Klasen(2008)を参照されたい――。 国際比較分析を通じて得られた証拠(4つ目の証拠)に関して言うと、データの信頼性に若干問題があり、南アジアや東アジアの中でも性差別が原因で――女児が生まれると役所にその旨が届け出られなかったり、生まれたばかりの女児が間引れたり、女児のネグレクト(育児放棄)が広く見られたり、女児が中絶されたりといった理由で――出生性比が高くなっている可能性がある国々のデータに分析結果が強く影響されている可能性が指摘されている。ミクロデータの分析を通じて得られた証拠(2つ目の証拠)に関しては、ある程度妥当性が認められているものの、サンプルサイズが小さいのに加えて、南アジアや東アジアの国々のデータが含まれておらず、広まっているB型肝炎ウイルスの種類が地域ごとにまちまちであることも指摘されている。中国では出生性比が飛びぬけて高かったという証拠(1つ目の証拠)に関しては、(少なくとも中絶手術が普及する1990年代までに限ると)こと第1子に関しては出生性比が標準値と変わらない地域が国内にいくつもあったことが判明している。さらには、Abrevaya(2008)によると、アメリカに移住した中国人の出生性比が高い理由は、両親がB型肝炎に感染していたためではなく、女児の中絶が選ばれたためである可能性が高いという。時系列データの分析を通じて得られた証拠(3つ目の証拠)に関しては、ある程度妥当性が認められているものの、統計解析の面で若干の問題を抱えていて、決定的な証拠とまでは言えないようだ。

おそらく最も致命的と言える反論を寄せているのが、林明仁(Ming-Jen Lin)&駱明慶(Ming-Ching Luoh)の二人による最近の論文である(Lin&Luoh, 2008)。彼らは、台湾における300万件を超える出生児のデータを分析し、母親がB型肝炎のキャリアであっても出生性比にはこれといって大した影響は生じないとの結論を得ている。彼らの推計によると、中国における「消えた女性」のうちでB型肝炎によって説明できるのは2%にも満たないとのことだ。となると、残りの98%は性差別によるものではないかとの可能性が浮かび上がってくることになる。とは言え、彼らの分析にも問題は無くはない。彼らの分析で対象になっているのは中国ではなく台湾であり、母親がB型肝炎のキャリアであるケースだけしか考慮されていない。ここで再び登場するのが、オスターだ(Oster&Chen&Yu&Lin, 2008)。オスターは、共同研究者の協力を得て、母親だけではなく父親の側がB型肝炎のキャリアであるケースも含めて、中国におけるB型肝炎のキャリアに関する大規模なデータを収集して、それに詳細な分析を加えている。そして、母親だけではなく父親がB型肝炎のキャリアであっても出生性比にはこれといって大した影響は生じないとの結論を得ている。かくして、中国(そして、おそらくは南アジア)における歪んだ人口性比や「消えた女性」の謎を解く鍵を(B型肝炎という)生物学的な要因に求めることはできなくなり、性差別こそがその大きな原因である可能性が再び持ち上がってくる格好となったのである。

悪い報せと良い報せ

オスター論文をきっかけとして巻き起こった論争から、一体何が得られたのだろうか? まずは、悪い報せから指摘しておこう。中国や南アジアにおける「消えた女性」の47%~70%を説明できるような生物学的な要因というのは、どうやら幻だったようだ。ということは翻って、Sen(1989, 1990)、Coale(1991)、Klasen&Wink(2002, 2003)の言い分がやはり正しくて、女児の中絶やネグレクト(育児放棄)が原因で、女性の死亡率が依然として相対的に高いままという可能性があることになる。 しかしながら、悪い報せの中にも良い報せがいくつかある。1980年代から1990年代にかけてB型肝炎の予防接種が開始されたのに伴って、南アジアのいくつかの国では出生性比が若干ながら低下する傾向が見られたわけだが、オスターの主張が正しいと仮定した場合は、この間に性差別がさらに酷くなったとの解釈が成り立つことは先に見た通りである。しかしながら、オスターの当初の主張に疑義が生じた今となっては、Klasen&Wink(2002, 2003)による解釈が妥当するように思われる。すなわち、「消えた女性」問題を抱える大半の地域では、1980年代から1990年代にかけて性差別が若干ながら薄らいだ可能性があるのだ。とは言え、中国は例外である。一人っ子政策〔拙訳はこちら〕に加えて、男女の産み分けを可能とする中絶手術が普及した結果として、中国では性差別の問題が悪化の一途を辿り、女性が生き残るのがなおさら難しくなる格好となったのである。

<参考文献>


●Abrevaya, J. 2009. “Are there missing girls in the United States?”, American Economic Review: Applied Economics 1(2): 1-34.
●Blumberg, B. and E. Oster. 2007. “Hepatitis B and sex ratios at birth: Fathers or Mothers?(pdf)”, Mimeograph, University of Chicago.
●Chahnazarian, A. 1986. “Determinants of the sex ratio at birth”, Ph.D. dissertation, Princeton University.
●Chahnazarian, A. B. Blumberg, and W. Th. London. 1988. “Hepatitis B and the sex ratio at birth: A comparative study of four populations”, Journal of Biosocial Sciences 20: 357-370.
●Coale, A. 1991. “Excess female mortality and the balance of the sexes: An estimate of the number of missing females”, Population and Development Review 17: 517-523.
●Das Gupta, M. 2005. “Explaining Asia’s Missing Women: A new look at the data”, Population and Development Review 31(3): 539-535.
●Das Gupta, M. 2006. “Cultural versus biological factors in explaining Asia’s Missing Women: Response to Oster”, Population and Development Review 32: 328-332.
●Ebenstein, Avraham. 2007. “Fertility choices and sex selection in Asia: Analysis and Policy”, Mimeograph, University of Berkeley.
●Klasen, S. 1994. “Missing Women Reconsidered”, World Development 22: 1061-71.
●Klasen, S. 2008. “Missing Women: Some Recent Controversies on Levels and Trends in Gender Bias in Mortality(pdf)”, Ibero America Institute Discussion Paper No. 168. In Basu, K. and R. Kanbur (eds.) Arguments for a better world: Essays in honour of Amartya Sen. Oxford: Oxford University Press, 280-299.
●Klasen, S. and C. Wink. 2002. “A turning point in gender bias in mortality: An update on the number of missing women”, Population and Development Review 28(2): 285-312.
●Klasen, S. and C. Wink. 2003. “Missing Women: Revisiting the Debate”, Feminist Economics 9: 263-299.
●Klasen, S. 2003. “Sex Selection”, In P. Demeny, and G. McNicoll (eds.) Encyclopaedia of Population. New York: Macmillan, 878-881.
●Lin, M-J. and M-C. Luoh. 2008. “Can Hepatitis B mothers account for the number of missing women? Evidence from 3 million newborns in Taiwan”, American Economic Review 98(5): 2259-73.
●Oster, E. (2006). “Hepatitis B and the Case of Missing Women(pdf)”, Journal of Political Economy 113(6): 1163-1216.
●Oster, E. G. Chen, X. Yu and W. Lin. 2008. “Hepatitis B does not explain male-biased sex ratio in China(pdf)”, Mimeographed, University of Chicago.
●Sen, A. 1989. “Women’s Survival as a Development Problem”, Bulletin of the American Academy of Arts and Sciences 43(2): 14-29.
●Sen, A. 1990. “More than 100 million women are missing”, New York Review of Books, 20 December.

2022年11月1日火曜日

Sascha O. Becker&Ludger Woessmann「デュルケーム『自殺論』再訪 ~プロテスタント教徒はカトリック教徒よりも自殺傾向が高い?~」(2012年1月15日)

Sascha O. Becker and Ludger Woessmann, “Religion matters, in life and death”(VOX, January 15, 2012)

宗教は、自殺という重大な決断に何らかの影響を及ぼすだろうか? 19世紀のプロイセンのデータを用いて検証したところ、プロテスタント教徒の割合が高い地区(郡)では、カトリック教徒の割合が高い地区(郡)においてよりも自殺率がずっと高い傾向にあり、プロテスタンティズムこそが自殺率を高めている原因であるとの結果が得られた。経済学的なモデル(合理的選択理論)の助けを借りれば、プロテスタンティズムがなぜ自殺率を高めることになるのかを理解する手掛かりを得ることができる。

フランスの社会学者であるエミール・デュルケームが1897年(!)に物した古典の一つである『自殺論』を紐解くと、プロテスタンティズムと自殺との間に強いつながりがあることを示唆する一連の統計数字が提示されている。プロテスタントの国ではカトリックの国においてよりも自殺率が高いというデュルケームの指摘は「社会学の分野における数少ない法則の候補として広く受け入れられるまでになっている」(Pope and Danigelis 1981)。

カトリックの国々と比べると、プロテスタントの国々では、自殺率が随分と高い傾向にあるというのは現在においても依然として当てはまる話であり、宗教と自殺との間にどのような関係が見られるかを探ることは、今もなお極めて重要なトピックだと言えるだろう。毎年世界中でおよそ百万人もの人々が自ら命を絶っており、若者の間では自殺が死因のトップであることを考えると、なおさらそうである(World Health Organisation 2008)。あちこちで頻発する自殺は、人々の感情に対してだけではなく、社会全体や経済全体に対しても広範な影響を及ぼしており、政府も自殺の予防に向けて数々の対応に追われているのが現状である。

自殺に関する経済学的なモデル

自殺の問題に経済学的な観点から切り込んだ研究は既にいくつもあるが(例えば、Hamermesh and Soss(1974)や Becker and Posner(2004)を参照せよ)、そういった一連の研究においては、自殺は生と死との間の選択問題の一つとして定式化されている。今後も生き続けることで得られる(と期待される)効用と、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用〔訳注;「命を絶つことで得られる効用って何だ?」と疑問に思われるかもしれないが、ここでは死後の世界の存在が想定されている。死んだ後に運良く天国に送られて、そこで喜びに満ち溢れた生活を過ごすことができるかもしれないと信じられている場合、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用は、その人にとってプラスの値をとることになる〕とを比較して、前者が後者を下回るようであれば、自殺を選ぶことが(その人にとって)「最適な」選択であるという話になるわけだ。

我々の最新の研究(Becker and Woessmann 2011)でもそのような(自殺に関する経済学的なモデルの)従来の枠組みを踏襲しているが、それに加えて三つのメカニズムを考慮に入れることで、プロテスタント教徒はカトリック教徒よりも自殺傾向が高い(自殺率が高い)との理論的な予測を導き出している。一つ目のメカニズムは、デュルケームも指摘しているものだが、プロテスタントとカトリックとの間の宗教組織としての構造の違いに由来するものである。具体的には、プロテスタントの方がカトリックよりも宗教組織として見た場合に個人主義的な色彩が強い。生きていく中で困難にぶつかったとしても、カトリック教徒は凝集性が相対的に高い(結束が強い)組織(ないしは宗教コミュニティー)に頼ることができ、そのためもあって(何らかの困難にぶつかったとしても)魂がこの世にとどまる(自殺せずに生き続けることを選ぶ)可能性もそれだけ高まることになると考えられるのだ。

我々の研究では、デュルケームも指摘している上記の社会学的なメカニズムに加えて、プロテスタントとカトリックとの宗教上の教義の違いにも着目しているが、この違いもプロテスタント教徒の自殺傾向をカトリック教徒よりも高める方向に働くことになる。まずは二つ目のメカニズムから取り上げることにしよう。プロテスタントの教義では、ある人物が救済されるか否かは神の恩寵だけによって決められ、その人物がこの世でどれだけ善行を積んだかによっては左右されない点が強調されるが、カトリックの教義では、ある人物の救済をめぐる神の判断が、その人物がこの世でどのような行いをし、どのような罪を犯したかによって影響される余地が残されている。自殺という大罪を犯せば、救済の可能性は遠ざかり、死後に天国で過ごす道が閉ざされることになってしまうのではないか。カトリック教徒は、そのように考えて、自殺を思いとどまることになるかもしれない〔訳注;カトリック教徒にとっては、自殺という行為は、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用を低下させる効果を持っている。自殺という大罪を犯すことで、死後に天国に行ける可能性が低下するかもしれないからである。その一方で、プロテスタント教徒の場合は、自殺という大罪を犯しても、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用に変化が生じることはない。自分が天国に行けるかどうかは、自殺したかどうかによって影響されないと考えられているからである〕。

最後に三つ目のメカニズムである。カトリックの教義では、罪の告白(懺悔)は(七つの)秘跡(サクラメント)の一つに数え上げられているが、プロテスタントの教義ではそうなっていない。当然のことながら、自殺は数ある罪の中でも、生きているうちに告白のしようがない唯一の罪である。そのため、絶望のどん底に陥ったカトリック教徒は、(生前に告白のしようがない罪である)自殺に踏み切る代わりに、(酒浸りの生活を送ったり、犯罪に手を染めたりといった)その他の(告白して赦しを得られるかもしれない)罪を犯すことを選ぶかもしれない(罪の告白が持つ代替効果)〔訳注;罪の告白によって天国に行ける可能性がある程度左右されるとすれば、カトリック教徒にとっては、(何らかの罪を犯すのであれば)告白の可能性が残されている罪を犯そうとするインセンティブがあることになる。告白のしようがない自殺という大罪を犯すよりも、告白の可能性が残されている罪を犯した方が、人生に終止符を打つ(命を絶つ)ことで得られる(と期待される)効用の低下が軽微で済むからである〕。

まとめよう。宗教が自殺をめぐる選択にどのような影響を及ぼすかを理解する手掛かりを得るために、「合理的選択」理論に助けを求めたわけだが、①プロテスタントとカトリックとの間の宗教組織としての構造の違い(凝集性の違い)、②人間のこの世での行いが神の恩寵に及ぼす影響に関する教義上の見解の違い、③自殺という罪を告白することは不可能だという事実、という三点をモデルに組み込んだところ、プロテスタント教徒はカトリック教徒よりも自殺に踏み切る可能性が高いとの理論的な予測が導き出されることになったのである。

19世紀のプロイセンのデータは何を物語っているか?

次に、実際のデータを用いて理論的な予測の妥当性を検証する必要があるが、我々の研究では、19世紀のプロイセン(王国)のデータに目を向けている。なぜ19世紀のデータに目をつけたかというと、デュルケームが『自殺論』の中でカバーしている時期が19世紀だからというのもあるが、当時は宗教が今よりも(ほぼすべての人がいずれかの宗派に属しており、宗教が生活のあらゆる面に浸透していたという意味で)広く普及していたからでもある。なぜ19世紀のプロイセンを選んだかというと、当時のプロイセンでは、プロテスタントもカトリックもいずれも少数派ではなかったことに加えて、それぞれの教徒が政治制度や裁判制度、言語や文化を同じくする州で共存して生活を営んでいたからでもある。

我々は、当時のプロイセン王国の公文書が保管されているアーカイブに足を運んだが、そこにはプロイセン統計局が収集し、それぞれの地区の警察当局が厳重に管理していた1869年から1871年までのデータが残されていた。452の郡すべて〔訳注;当時のプロイセンでは、最大の行政単位としてまず州(全部で11州)があり、それに次いで県(全部で35県)、そして最後に郡(全部で452郡)が続くという格好になっていた〕のデータが揃っており、その中には自殺の発生件数のデータも含まれている。さらには、1871年に実施された国勢調査のデータも残されていたが、その中には、(それぞれの教徒が人口に占める割合をはじめとした)宗教に関する情報だけではなく、識字率や経済発展の度合い等に関する情報も含まれている。

プロテスタンティズムが自殺に対してどのような効果を持つかを実証的に跡付ける上では、厄介な困難が控えている。自殺傾向が高い性格の持ち主がプロテスタント教徒になることを選んだという可能性があるのだ〔訳注;プロテスタント教徒の自殺率が高いという事実(あるいは、プロテスタント教徒が多く住む地域ほど自殺率が高いという相関関係)が仮に見られるとしても、プロテスタンティズムには自殺傾向を高める効果がある(プロテスタンティズムが自殺率を高めている原因だ)とは必ずしも言えない。例えば、元々自殺傾向が高い人がプロテスタンティズムに引き寄せられてプロテスタント教徒になっている可能性があるからである。この研究では、操作変数法と呼ばれる手法を使って因果の向き(プロテスタンティズムが自殺率を高めている原因だとの因果関係)の推定が試みられている〕。しかしながら、今回のケースに関しては、この点はそれほど問題とはならないだろう。というのは、当時のプロイセンでは、個人が宗派を変える例はほとんど見られなかったし、郡ごとの宗派の違いは、何世紀も前にその界隈を統括していた統治者の決定に遡ることができるからである。とは言え、何の手も打っていないわけではない。因果の向きをできるだけ正確に特定するために、我々の論文では、宗教改革後にプロテスタンティズムが(マルティン・ルターが活躍した町である)ヴィッテンベルクを中心として同心円状に広がっていったという歴史的な事実に目をつけている。それぞれの郡とヴィッテンベルク間の距離を操作変数として用いることで、因果の向きをできるだけ正確に特定しようと試みたのである。

宗教改革の波は、ヴィッテンベルクを中心として同心円状に広がっていったわけだが、その事実を反映して、ヴィッテンベルクに(距離的に)近い郡ほどプロテスタント教徒が住民全体に占める割合は高くなっている。さらには、ヴィッテンベルクに近い郡ほど、自殺率も高くなっている(図1を参照)。図2をご覧いただきたいが、プロテスタント教徒が占める割合が高い郡ほど、自殺率も高いというはっきりとした傾向が確認できる。住民すべてがプロテスタント教徒である郡の自殺率の平均をとると、住民すべてがカトリック教徒である郡のそれを大幅に上回っている。宗派ごとの自殺率の違いは量的に見てかなりのものである。プロテスタント教徒の自殺率(年平均値)は、人口10万人あたり18人となっており、カトリック教徒の自殺率のおよそ3倍も高い数値となっているのだ。

図1 プロイセンにおける郡ごとの自殺率の分布(1869年~1871年までの期間における自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)の年平均値)

出典:Becker and Woessmann (2011)


図2 プロテスタンティズムと自殺率との関係(1871年時点での郡ごとのプロテスタント教徒の割合と1869年~1871年までの期間における自殺率の年平均値)

出典:Becker and Woessmann (2011)


以上のような結果は、郡ごとの経済発展の度合いの違いや識字率の違い、天候条件の違い、メンタル面の健康に問題を抱えている住民の割合の違い等々といった要因を考慮しても、揺るがずに成り立つことが見出されている。過小報告の可能性〔訳注;実際は自殺で命を失っているにもかかわらず、死因が(例えば事故死と)偽って報告される可能性〕や特定の宗派の集中度(それぞれの郡で異なる教徒がどれだけ混在しているか)の違いが持つ効果、生態学的誤謬の可能性を考慮しても、どうやら結果は左右されないようである。さらには、1816年のデータでも同様の検証を試してみたが、やはり同様の結果が得られている。

プロテスタンティズムがプロテスタント教徒の福利に及ぼす多様な効果

今回新たに判明した結果によると、プロテスタンティズムは(自殺率を高める可能性があるという意味で)好ましくない効果を持つ可能性があるわけだが、その一方で、プロテスタンティズムには好ましい効果が備わっている可能性もある。我々二人のかつての共著論文(Becker and Woessmann 2009)で示されているように、プロテスタンティズムは、人的資本の蓄積を促すことで、大多数の教徒(プロテスタント教徒)の収入を増やす(生活水準を高める)効果を持っている可能性があるのだ。その一方で、今回新たに判明した結果によると、プロテスタンティズムは、不幸極まりない境遇に置かれた一部の教徒(プロテスタント教徒)の自殺傾向を高める可能性を持っているわけだ〔訳注;プロテスタンティズムは、(今後も生き続けることで得られる(と期待される)効用を低下させる効果を持つという意味で)人を不幸にするという意味ではないことに注意されたい。何らかの原因(失業や失恋、親しい人との死別等々)で、今後も生き続けることで得られる(と期待される)効用が大幅に低下した場合に、プロテスタント教徒はカトリック教徒に比べると自殺を選ぶ可能性が高いという意味である〕。プロテスタンティズムに備わるこのような相反する二つの側面は、ひょっとすると、いわゆる「ダークコントラスト・パラドックス」(“dark-contrasts paradox”)――幸福度が高いにもかかわらず自殺率も高い地域が数多く見られることはよく知られているが、そのような逆説的な現象の背後には、他者との比較を通じて自らの境遇を判断する人間の特性が潜んでいる可能性がある(Daly et al 2011)――とも関係してくるかもしれない。ともあれ、宗教は、生と死のどちらの面でも重要な役割を果たしていることだけは明らかだと言ってよいだろう。


<参考文献>


●Becker, Gary S, and Richard A Posner (2004), “Suicide: An economic approach“(pdf), Mimeo, University of Chicago.
●Becker, Sascha O, and Ludger Woessmann (2009), “Was Weber wrong? A human capital theory of Protestant economic history“, Quarterly Journal of Economics, 124(2): 531-596.
●Becker, Sascha O, and Ludger Woessmann (2011), “Knocking on Heaven’s Door? Protestantism and Suicide”, CEPR Discussion Paper 8448, Centre for Economic Policy Research.
●Daly, Mary C, Andrew J Oswald, Daniel J Wilson, and Stephen Wu (2011), “Dark contrasts: The paradox of high rates of suicide in happy places“, Journal of Economic Behavior and Organization, 80(3): 435-442.
●Durkheim, Émile (1897), Le suicide: étude de sociologie, Félix Alcan (Suicide: A study in sociology, translated by John A Spaulding and George Simpson, Glencoe, The Free Press, 1951)(宮島 喬(訳)『自殺論』).
●Hamermesh, Daniel S, and Neal M Soss (1974), “An economic theory of suicide“, Journal of Political Economy, 82(1): 83-98.
●Pope, Whitney, and Nick Danigelis (1981), “Sociology’s “one law”“, Social Forces, 60(2): 495-516.
●World Health Organization (2008), Preventing suicide: A resource for media professionals, World Health Organization and International Association for Suicide Prevention.