2010年4月30日金曜日

Alberto Alesina and Richard Holden 「選挙における曖昧さと過激さ」


Alberto Alesina and Richard Holden,〝Why do candidates move along the political spectrum?”(September 22, 2008)

理論的な観点からすると、大統領候補者たちは、選挙に勝つつもりであるならば中位投票者を説得しようと試みるはずであり、その試みの過程においては、選挙民に向かって自らの政策方針(platforms)を明瞭な言葉で語るはずである。しかしながら、現実の候補者たちは、しばしば曖昧な言葉で語り、政治的スペクトル上の中心に向かって(=中位投票者の選好に沿うように)自らの政策方針を調整している様子はない。我々は、最近の研究において、いかにして金権政治(money-politics)が候補者たちの関心を政治的スペクトル上の中心(中位投票者)から逸らせることになり、また、候補者たちの政策方針における曖昧さを助長することになるか、を議論している。


政治学(political science)の世界でもっともよく知られている結論によると(Downs 1957)、2人の候補者が選挙レースを争うケースでは、ヨリ多くの票を獲得して選挙に勝利することを目指す2人の候補者は、互いにその政策方針を政治的スペクトル上の中心に向かって調整することになるはずである。もっと正確に表現すると、2人の候補者はともに中位投票者(median voter)が選好するような政策を提言することになるはずである。中位投票者の選好に沿う政策を提言することが選挙に勝利するための最善の戦略であるということになれば、2人の候補者はともに選挙民に対して今まさに語りかけようとする話の内容(=中位投票者の選好に沿う政策)が可能な限り明瞭に伝わるように心掛けるはずであり、政策方針の中身に関するちょっとした不確実性であってもそれを取り除こうと試みるはずである。

現実の選挙はどうもこの理論的な予測からはかけ離れているようである。現実の2政党間の選挙の多くでは、候補者たちが掲げる政策方針は大きな対立を見せており、しばしば政治的スペクトル上における政治的中道の位置にスッポリと大きな穴が開いている(=政治的中道の立場に立つ候補者がほとんどいない)ことも珍しくない。この点については現在のアメリカがいい例であろう。共和、民主両党の大統領候補者は、外交から中絶、ヘルスケア、税金の問題にわたるまであれもこれも(他にも両者が大きく対立する争点があるようなら先のリストに付け加えていってください)に関して意見を異にしている。過去2回の米大統領選挙における両候補者間の意見の食い違いといったら、それはそれはもう激しいものだった。ここ最近フランスやイタリア、スペインで実施された選挙でも、相対する2つの政党グループが提示した政策方針の中身は大きく異なっていた。

候補者たちは自らの政策方針を曖昧さを排除した明瞭なかたちで選挙民に対して表明するはずである、という理論的な予測もまた現実政治の世界とは大きくかけ離れている。政治家は、選挙期間中において、自らの立場を明確に表明することを避けようとしてどっちつかずの言葉で語るものだ、と相場が決まっているものである。現実の政治家が見せる曖昧さ(ambiguity)は主に2つの形態をとる。第1のタイプの曖昧さは、文字通りに、自らの政策方針を曖昧、不明瞭(vague)なままにしておくことであり、もう1つのタイプの曖昧さは、語りかける聴衆に応じて話す内容(メッセージ)に修正を加える、というかたちをとる。

さて、どうすれば2政党間の選挙競争に関する古典的なダウンズモデルの予測と現実政治とのかい離を埋めることができるであろうか? 我々は、最近の論文において (Alesina and Holden 2008)、政党の政策形成に対して逆の方向に作用する2つの力(force)の存在を指摘し、その2つの力の働きに関して分析を加えている。第1の力は、ダウンズモデルでも想定されている通常の力であり、この力が作用する結果として両政党の政策方針は政治的スペクトラム上の中心に向かって収斂することになる(その結果として互いの政策方針の内容も似通ったものとなる)―左翼の候補者(政党)が、左翼的な選挙民の支持に加えて、ヨリ穏健な立場の(政治的中道よりの)選挙民からも支持を勝ち得ようとする結果として、彼らの政策方針は政治的スペクトル上の中心に向かって調整されていくことになる(右翼の候補者(政党)に関しても同様の議論が成り立つ)―。しかしながら、政党間の政策方針を政治的スペクトル上の正反対の方向に引き離すように作用するもう一つの力が存在する。この力は、選挙キャンペーンへの貢献(campaign contributions)―「選挙キャンペーンへの貢献」は、大まかには、政治家(政党)に対する金銭(政治献金や賄賂等)の供与、ロビイストをはじめとした政治活動家(activists)が選挙運動に投下する時間、労働組合によるストライキetcから成っている―を通じてその効果を表すことになる。

(上で定義したような広い意味での)選挙キャンペーンへの貢献は、選挙における過激さを増す方向、つまりは、両政党間の政策方針を政治的スペクトル上の中心からかい離させる方向に(それも正反対の方向に)作用する結果になりがちである。選挙キャンペーンへの貢献は、有権者全体のムードを自身にとって都合のよい方向に(右翼的な政党にとっては保守的な方向に、左翼的な政党にとってはリベラルな方向に)変える働きをするかもしれない。例えば、保守的な運動グループからの政治献金のおかげで、TVでヨリ長く(右翼的な政党の)選挙CMを流すことが可能となり、その結果として(選挙キャンペーンへの貢献にはそれほど積極的ではない=投票以外の方法で政治に関与することにはそれほど熱心ではない)有権者の中の中道的な人々が保守的な(右翼的な)方向に傾くことになるかもしれない。あるいは、左翼的な政治活動家が多くの時間を選挙運動に費やす結果として、左翼的な政党が政治的に重要な地区で勝利を収めることができるかもしれない。そういうわけで、例えば右翼的な政党から立候補する候補者は、2つの相反する力のバランスを取らなければならないことになる。政治的スペクトル上を右方向に動くことで、彼あるいは彼女は、保守層からヨリ多くの票を得ることができ、さらには(選挙キャンペーンへの貢献の効果を通じて)中位投票者を右方向に傾かせることができるかもしれない。一方で、政治的スペクトル上の中心に向かって動くことで、彼あるいは彼女は、(保守的な人々からの)選挙キャンペーンへの貢献を失うことになるが、政治的スペクトル上においてそこまで右の方向にはいないかもしれない中位投票者に向かって近付いていくことになる。これら相反する2つの力のバランスを取ろうとする結果、この右翼的な候補者が掲げる政策方針は必ずしも政治的スペクトル上の中心に向かって調整されることはないかもしれない。同様の理屈は左翼的な政党から立候補する候補者に対しても妥当するので、最終的には両政党間の選挙競争は分裂的な均衡(polarised equilibrium)に落ち着くことになる(訳者注;両政党が掲げる政策方針が政治的スペクトル上の中心に向かって収斂するのではなく、両政党ともに政治的スペクトル上の異なる位置に(右翼的な政党は政治的スペクトル上の中心からやや右寄りに、左翼的な政党は政治的スペクトル上の中心からやや左寄りに)留まったままに互いの政策方針が対立的な内容を含むことになる)かもしれない。

相反する2つの力のバランスを取ろうとする候補者の努力は、政策方針における曖昧さを生むことにもなるかもしれない。ある意味、候補者たちはケーキを持ちつつ同時に食べたい(=矛盾することを同時に達成したい)と考えることだろう(the candidates would like to have their cake and eat it too)。候補者たちは、明確に自身の政策方針を語るよりは、幅を持った緩やかな政策(a range of policies)を語ることになるしれない。選挙キャンペーンへの貢献者(訳者注;上で触れたように、金銭、時間、ストライキ等の実力行使を通じて政党に働き掛ける人々)は、候補者が当選した暁には、候補者が彼ら(=選挙キャンペーンへの貢献者)の最も支持するような政策(例えば、幅を持った政策の中でも最も極端な政策)を実行してくれることを望むだろう。 一方で、中位投票者は、その反対(幅を持った政策の中でも最も緩やかな(イデオロギー的に見て最も中立的な)政策の実行)を望むことだろう。このようなかたちで政策方針を曖昧に保つことで(=政策に幅を持たせることで)、候補者は、(中位投票者の選好を反映した政策方針を明確に表明する場合と比べて)選挙キャンペーンへの候補者からヨリ多くの票を獲得することが可能となると同時に、(選挙キャンペーンへの貢献者たちを満足させるような政策方針を明確に表明する場合と比べて)中位投票者からの票の流出をヨリ少なめに抑えることができる、つまりは自らの政策方針を明確に語る場合よりもヨリ多くの票を獲得することができるかもしれないのである。選挙キャンペーンへの貢献者と一般の投票者とは、候補者が曖昧さを欲するインセンティブを有していることに気付くこともあるだろうが、候補者が有権者に対して自分自身の真の選好を隠すことができる限りは、均衡においては(選挙キャンペーンへの貢献者と一般の投票者がともに、完全に合理的であり、かつ、リスク回避的である、と仮定した場合においても)、候補者にとって政策方針を曖昧に保ち続けることが望ましい戦略となり得るのである。

以上の議論は、2政党間の選挙であればどのようなケースに対しても妥当するものである。アメリカの大統領選挙のケースでは、両政党の候補者間における政策方針の曖昧さを助長する追加的な力として、予備選挙(primaries)の存在を指摘することができる。どの候補者(党の公認を巡って争う同党内の大統領立候補者)も彼あるいは彼女の政策スタンスに関するオプション価値(option value)を維持しようと欲している。政策スタンスを曖昧なままにしておけば、(同党内の)誰が対立候補として立候補するかに応じて自らの立ち位置を調整することができるからである。それゆえ、対立候補が誰になるのか、そして対立候補がどのような政策スタンスをとることになるのか、という点に関して不確実性が存在するとなれば、政策方針における曖昧さは一層助長される結果となる。(予備選挙の後に来る)大統領選挙の一般選挙において(共和、民主)両党の公認候補の間で働く曖昧さを志向するインセンティブの存在を考えれば、予備選挙での対立候補が誰であるかが具体的に判明しても対立候補である彼あるいは彼女の政策スタンスは(訳者注;(同党内の)対立候補は、次に来る一般選挙を見据えて政策方針を曖昧に保つことになるであろうから)完全には明らかにはならないだろう(訳者注;それゆえ、この前の文章にあるように、対立候補がどのような政策スタンスをとることになるのかに関して不確実性が存在することになり、どの候補者も(対立候補が政策スタンスを明らかにしないために)対立候補の政策スタンスに応じて自らの立ち位置を明らかにすることができない=誰一人として自らの政策スタンスを明らかにしない、という状況が生じることになる)。それゆえ、予備選挙において自らの政策方針を曖昧さを排除した明確なかたちで語ることは、キツキツの拘束衣をまとうことを意味することになるかもしれない(訳者注;予備選挙で自らの政策方針を明確に語ること=自らキツキツの拘束衣をまとうこと、であり、そのようなことを自ら進んで行う人は誰もいない、ということを意味しているのだろう)。一方で、リスク回避的な投票者は、予備選挙におけるあまりにも行き過ぎた曖昧さを嫌うことになるであろう。予備選挙における曖昧さの程度は、これら相反する2つの力(リスク回避的な投票者による曖昧さを忌避する力と予備選挙において(同党内の)対立候補の間で働く曖昧さを維持しようとする力)のバランスによって決定されることになる。アメリカの大統領選挙においては、予備選挙における曖昧さを志向するインセンティブが、2政党間の選挙であればどのようなケースにおいても見られる曖昧さを志向するインセンティブに付け加わることになるのである。

熾烈な予備選挙が争われるケースでは、曖昧さは時に滑稽なかたちをとってあらわれることがある。例えば、つい最近の共和党予備選挙で、J.マケイン(John McCain)は対立候補であるM.ロムニー(Mitt Romney)に対して次のように迫った。「あなたは中絶問題に関して7年ごとに立場を変えてらっしゃるようですが、一体どういうわけでしょう?」。マケインのこの突っ込みに対してロムニーは次のように答えたのであった。「私が立場を変更した背景には、クロ-ン(cloning)研究における新発見があるんです」(← ロムニーの返答をそっくりそのまま再現しています。こちらでは一切手を加えておりません)。


<参考文献>

〇Alesina and R. Holden (2008) “Ambiguity and Extremism in Elections”, NBER Working Paper.
〇Downs, Anthony (1957). An Economic Theory of Democracy, Harper and Row, New York, NY.

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