2011年5月5日木曜日

Chris Dillow 「2つの正義」


Chris Dillow, "Two justices"(Stumbling and Mumbling, May 03, 2011)


果たしてこの度のオサマ・ビン・ラディンの殺害を「正義が成し遂げられた」(“justice has been done”)ものとして理解してよいものなのだろうか?(こちらこちらこちらを参照) この点に関連してちょっとしたパラドックスが持ち上がってくる。
おおざっぱに言って、正義に関する見解は、「プロセスとしての正義」(訳注;プロセスが正義に適っているかどうか、を問題とする立場)と「結果としての正義」(訳注;結果が正義に適っているかどうか、を問題とする立場)との2タイプに分類することが可能である。「プロセスとしての正義」という観点からすると、正義は成し遂げられなかった、ということになろう。というのも、ビン・ラディンの殺害は公正な(just)裁判の過程を経た結果ではないからである(原注1)。しかしながら、「結果としての正義」という観点に立てば、正義は成し遂げられた、ということになるのかもしれない。犯した罪の重さゆえに死に値する人物がいるとすれば、まさしくビン・ラディンはそのような人物である、と言い得るからである(原注2)。
さて、ここで冒頭で指摘したちょっとしたパラドックスが生じてくることになる。経済問題が論じられる文脈においては、「結果としての正義」(justice as outcome)と「プロセスとしての正義」(justice as process)とのどちらの正義観を受け入れるかという点とイデオロギー上の右(保守派)か左(リベラル派)かという点との間には大きな関連が見られる。多くの―すべての、とは言わないが―リベラル派は、それ(=経済面での不平等)がどのようなプロセスを通じて生じたものであるかにかかわらず、現実における経済面での不平等(所得分配の不平等、格差)は非常に大きいものと考えている。これは正義を結果に照らして判断する立場である。一方で、多くの保守派は正義をプロセスに照らして判断する立場に立つ。この点は、ロバート・ノージックの有名な格言「公正な手段を通じて実現するもの(あるいは結果)は何であれ、それ自身公正である」(“whatever arises by just means is itself just.”)に要約されている。また、以下のハイエクの言葉も「プロセスとしての正義」という立場を表現したものである。

市場メカニズムを通じた個々人への便益(benefits)と負担(burdens)の分配が誰かしらの思慮の結果であるとすれば、市場メカニズムを通じた便益と負担の分配は、多くの場合、非常に不公正なものであると見做されねばならないだろう。しかし実際はそうではない。市場メカニズムを通じた便益と負担の分配は、その最終的な結果が誰かしらによって意図的に操作されないと同時にその最終的な結果が誰からも予見されないような性質を備えるプロセスの結果として生じるものなのである。

(The manner in which the benefits and burdens are apportioned by the market mechanism would in many instances have to be regarded as very unjust if it were the result of a deliberate allocation to particular people. But this is not the case. Those shares are the outcome of a process the effect of which on particular people was neither intended nor foreseen by anyone.) (Law, Legislation and Liberty vol II, p64)


経済問題に関しては、保守派は「プロセスとしての正義」の立場に立ち、一方でリベラル派は「結果としての正義」の立場に立つ、ということを前提にすると、ビン・ラディン殺害に対して、保守派は疑いの目をもって臨み、リベラル派は比較的肯定的な態度で臨む、ということが予想されることだろう。というのも、ビン・ラディンは適正な法の手続き(due process)を経ることなく殺害されたが、殺害という結果は「結果としての正義」に適っていると言い得るわけだからである。しかしながら、どうもこの予想は適当ではないようである。予想されるところとは違って、ビン・ラディン殺害に対して、保守派の中のある人物すべての保守派ではないが-は喜びを示し、リベラル派の中のある人物-すべてのリベラル派ではないが-は気のとがめを見せているのである。

さて、それではなぜ予想とは異なる結果が生じるのであろうか? その理由の一つとして考え得るのは、我々は経済問題を語る際にも犯罪(が絡む)問題を語る際にも同じ「正義」という言葉を用いているが、文脈の違いに応じて(=経済問題を論じる際と犯罪問題を論じる際とで)「正義」という言葉に対して異なる意味合いを持たせているのかもしれない、ということである(となれば、なぜそうであるのか、という疑問が生じてくることになる)。別の理由としては、正義に関する我々の直観が単に混乱しているにすぎないためなのかもしれない。あるいは、ビン・ラディン殺害を巡る議論の中において実のところそもそも正義は争点になっていない、ということなのかもしれない。


(原注1) ここで私は、ビン・ラディンの殺害が暗殺であったのか、それとも通常の軍事行動の中での殺害であったのか、という問題-この違いは重要であると考える人もいることだろう-は無視していることを注意しておく。
(原注2) 罪の重さゆえに死に値する人物がいると考えながら、例えばプロセスが不公平(unfair)であることを理由に死刑(あるいは殺害)に反対することも首尾一貫した立場として成り立ち得る。