2011年11月18日金曜日

Todd Keister 「なぜ名目金利には「ゼロ下限制約」が存在するのだろうか?」

Todd Keister, "Why Is There a “Zero Lower Bound” on Interest Rates?"(Liberty Street Economics, November 16, 2011)


「名目金利には「ゼロ下限制約」("zero lower bound")が存在する」と経済学者が発言しているのを耳にしたことがある人もおそらくいることだろう。「名目金利には「ゼロ下限制約」が存在する」というのは、言い換えれば、名目金利がゼロ%以下の水準に低下することはありそうもない、ということである。確かにいくつかの市場金利が現実にマイナスを記録したエピソードを―遠い過去からだけではなく、つい最近からも―見つけ出すことはできるものの、市場金利がマイナスを記録した事例というのは非常に限られている。このエントリーで私は次の2点を説明しようと思う。第1に「なぜ原則的には名目金利はマイナスになり得るのか?」、第2に「それにもかかわらず、なぜ名目金利が実際にマイナスを記録することは稀であるのか?」を説明しようと思うのである。金融市場は一般的にプラスの名目金利の下で機能するようデザインされており、それゆえ、もし名目金利がマイナスになったとすれば金融市場に重大な混乱が生じることになるかもしれない。政策当局者は、非伝統的なツールを用いて金融緩和に乗り出そうとする時でさえも、名目金利がマイナスになることで生じるかもしれない金融市場の混乱を避けようとして短期金利をゼロ%以上の水準に保とうとする傾向がある。政策当局者によるこの政策選択こそが「ゼロ下限制約」が存在する原因となっているのである。

「ゼロ下限制約」の存在についてのお決まりのお話は、現金の名目金利(現金を保有することから得られる名目金利)は常にゼロ%である、との観察からはじめられる。1ドル紙幣を手元に保有し続けていれば、明日も1ドルは1ドルのままであり、1週間後も1年後も変わらず1ドルは1ドルのままである。一方で、1ドルを貯蓄に回してその時の名目金利(年率)がマイナス2%であったとすれば、今日貯蓄した1ドルのうち1年後に手元に戻ってくるのはわずか98セントだけである。現金をそのまま手元に保有しておくという選択肢は万人に開かれているわけだから、名目金利がマイナスであるような資産に現金をすすんで投資しようと考える人は誰一人としていないことだろう。

しかしながら、このお決まりのお話はまだ途中であってここでおしまいというわけではない。大量の現金を(盗難されないように)自ら管理・監視したり、金額の大きい取引を現金だけを用いて行うことは、コスト(あるいは手間)のかかる行いである。一方で、現金を当座預金口座(checking account)に預けることで得られる安全性や便利さは、現金だけを用いて取引する―家賃や住宅ローン、公共料金を支払う等―ことに伴うリスクや苦労を想像すればよく理解できることだろう。現金を預金として預け入れることで享受できるその安全性や便利さを思えば、預金金利がマイナスであったり、あるいは預金口座の管理費を課せられたりしたとしても―管理費を課せられるということは実質的には名目(預金)金利がマイナスであることと同じである―、それでも多くの人々は喜んで現金を預金口座に預けることだろう。

大規模な機関投資家に関しても事情は同じである。機関投資家らは、個人が預金口座に現金を預け入れるのとまったく同じように、「レポ」(買い戻し条件付きの債券取引)市場で資金を貸し付けたり、財務省短期証券(Treasury bills;Tビル)を購入したりするなど多様な方法で短期投資を行っている。現金と比較してこういった短期投資がもたらす安全性や便利さのことを思えば、大規模な投資家にとっては金利(レポ金利やTビルの利回り等)がマイナスであったとしても依然としてレポやTビル等といった対象は魅力的な投資先であり続けることだろう。実際にもいくつかのレポ金利は2003年中(この点についてはニューヨーク連銀によるこの調査(pdf)を参照せよ)やつい最近も(この点についてはブルームバーグ参照)マイナスを記録したことがあるし、Tビルの流通市場(secondary market)でもつい最近利回りがわずかではあるもののマイナスを記録している(この点についてはビジネスウィーク参照)。

言い換えれば、市場(名目)金利は、多くの人々が大挙して現金を退蔵しようとする動きを引き起こすことなく、ある程度であればゼロ%以下の水準になり得るわけである。にもかからわず、(大規模資産購入(LSAP)のような)非伝統的なツールを用いて金融緩和に臨む時でさえ、中央銀行は一般的には短期金利をプラスの水準に保とうと試みることになる。

例えば、現在FRBは民間の銀行がFRBの口座に預け入れている準備預金に対して0.25%の金利(IOR)を支払っている。プラスの準備預金金利が支払われるために、民間の銀行は(インターバンク市場やレポ市場といった)各種市場を通じて資金を借り入れるインセンティブを持つことになり(訳注;借り入れた資金を準備預金として預け入れれば準備預金金利の支払いを受けられるため)、その結果として(訳注;資金の借入需要がある程度保たれるために)大抵の期間を通じて市場金利はプラスの水準に保たれることになると期待される。9月に開催された連邦公開市場委員会(FOMC)では準備預金金利を引き下げるべきかどうかを巡って議論がなされたが、実際に準備預金金利が引き下げられることはなかった。準備預金金利を引き下げれば短期市場金利には下押し圧力がかかり、場合によっては短期金利がゼロ%以下の水準にまで低下することもあり得るかもしれないが、当時の会合の議事録には次のような記載が見られる。「多くの参加者は、準備預金金利を引き下げることでマネー・マーケット(短期金融市場)や信用仲介に対してコストのかかる混乱がもたらされる危険性があり、その(混乱の)効果がどれほどの規模のものになるかは予測困難である、との懸念を表明した。」(“many participants voiced concerns that reducing the IOR rate risked costly disruptions to money markets and to the intermediation of credit, and that the magnitude of such effects would be difficult to predict.”)

同様にイングランド銀行の金融政策委員会(MPC)でも9月に開催された会合(pdf)で政策金利(official Bank Rate)を0.5%以下の水準にまで引き下げるべきかどうかを巡って議論されたが、結局のところは政策金利が0.5%以下の水準にまで引き下げられることはなかった。かつてイングランド銀行の金融政策委員会の場(pdf)では「金利が極めて低い水準に保たれる状況が長引くことになればマネー・マーケットの機能が阻害されることになるだろう」(“a sustained period of very low interest rates would impair the functioning of money markets.”)との懸念が表明されている。

アメリカの金融市場において(名目金利がマイナスになることで)生じ得る混乱の例を以下にいくつか挙げることにしよう。
〇マネー・マーケット・ミューチュアル・ファンド(MMMF): マネー・マーケット・ファンドは投資家に対してマイナスの金利を支払う-直接的にマイナス金利を課すか、あるいは取引に手数料を課すことを通じて間接的にマイナス金利を課すか-ことが困難であるようなルールの下で機能している。MMF市場で金利(MMF利回り)がゼロ%近辺あるいはマイナスになったとすれば、おそらく取引の多くが停止されることになり、その結果借り手に対する信用の供与に混乱が生じる可能性がある。

〇国債の入札:現在のところ、アメリカの新発(新規に発行される)国債の入札では、入札参加者がマイナス金利での応札を行うことは認められていない。もし市場金利(国債の流通利回り)がマイナスになれば、新発国債はゼロ金利で発行される-その時の市場価格以下の価格で発行される-ことになり、もしその時需要(応札)が供給(発行予定額)を上回ることになれば応札に対する割り当て(rationing)が生じることになるだろう。そのような割り当て-つい最近の入札でも生じることになった(pdf)が-の発生は、入札参加者に対して、実際に自らが望む以上の金額で応札するインセンティブをもたらすことになり(訳注;割り当ての可能性を考慮して、つまりは、自らの応札が完全には満たされない可能性を考慮して、多めに応札しておこうと考えるため)、結果的にさらなる割り当てを生じさせることになってしまうだろう。入札ごとにどの程度の割り当てが生じるかが予測できなければ、投資家の中には望み以上のあるいは望み以下の債券を保有する者も現れることになり、そのためマーケットのボラティリティが高まることになってしまうだろう。

〇フェデラル・ファンド市場:準備預金金利が引き下げられることになればフェデラル・ファンド市場-民間銀行やその他の機関がオーバーナイト(翌日物)の資金を貸し借りする市場-にも影響が生じることだろう。準備預金金利が低下すれば、民間の銀行がフェデラル・ファンド市場で資金を借り入れるインセンティブが低下することになり、その結果フェデラル・ファンド市場での取引は減少することになるだろう。フェデラル・ファンド市場での取引が減少することになれば、市場金利(FF金利)は特殊な要因(idiosyncratic factors)に影響されがちとなり、それゆえFF金利は足許の市場の状況(訳注;資金調達の条件が緩和的か引き締め的か)を示す指標としてはそれほど信頼の置けるものではなくなってしまう(足許の市場の状況を示す指標としての信頼性が低下することになる)だろう。こうしてFF金利と足許の市場の状況との結びつきが弱まることになれば、FOMCが決定する金融政策はその大部分がFF金利に対するターゲットを設定するというかたちをとっているために、FOMCはマーケットとの間で(政策意図を巡って)コミュニケーションを図る上で困難を抱えることになってしまうかもしれない。

以上の例は、金融市場の既存の制度的枠組みの多くは金利がゼロ%近辺あるいはマイナスになることを想定した上でデザインされてはいないことを示している。原則としては、こういった制度的枠組み-ミューチュアル・ファンド市場や国債の入札制度等を律するルール-を変更することは可能である。例えば、2009年に国債取引の決済(settlement)に対してフェイルチャージ("fails charge")慣行が導入されることになったが(この点についてはニューヨーク連銀によるこの調査(pdf)を参照せよ)、この慣行は金利が極めて低い水準の下であっても市場がうまく機能することを可能にする制度変更の一つの例である(2012年2月にモーゲージ関連の市場でもフェイルチャージの導入が予定(pdf)されている)。しかしながら、実際のところは、そういった制度変更を実現するにはかなりの時間を要する可能性があり、また、万一ある市場において(マイナス金利下でも機能するような方向に)制度変更がなされたとしても単に混乱が発生する場所が別の市場に移るだけということになるかもしれない。

金利が極めて低い水準の下での取引は限られた経験であるために、ゼロ%近辺あるいはマイナスの金利に対して金融市場がどういった反応を見せることになりそうかをそれなりの確度をもって予測することは困難である。もし先に触れたいくつかの混乱が重大なものであると判明すれば、短期金利をさらに引き下げることは資金調達の条件を緩和するのではなくむしろ引き締める効果を持つことになるかもしれず、それゆえ反対に景気回復の妨げとなってしまう可能性がある。そのような結果を避けるために、政策当局者は市場金利をプラスの水準に保つように政策を選択する傾向にある。言い換えれば、マイナスの名目金利が金融市場に混乱を招いてしまう可能性があるために、政策当局者が名目金利の引き下げを通じて経済活動を刺激し得る能力(程度)に制限が課されることになっているわけである。この制限こそが名目金利に「ゼロ下限制約」が存在する原因となっているのである。

おことわり
本ブログで表明される見解はあくまでも著者の個人的な立場からなされるものであり、著者がニューヨーク連銀あるいは連邦準備制度内で占める地位を必ずしも反映するものではない。なお、文中における誤りや脱漏の責任はすべて著者本人にある。

2011年11月4日金曜日

Douglas Irwin 「1937-38年の景気停滞をもたらした原因は何か?」

Douglas Irwin, "What caused the recession of 1937-38?"(VOX, September 11, 2011) 
このたびの金融危機が1929年-1932年の大恐慌(the Great Depression)を再演するような事態に陥らずに済んだのは、政策当局による迅速な政策対応のおかげだった。しかしながら、1937-38年の再演を避けることはできるだろうか? 世界経済の足取りが再び鈍化する様子を見せている中、本稿では、新たな切迫感を持って「1937-38年の景気停滞をもたらした原因は何か?」という問いに取り組み、1937-38年の景気停滞の原因としてしばしば見過ごされがちな政策決定――1936年12月にアメリカ財務省が行った決定(金の流入をすべて不胎化する決定)――について説明する

1937-38年の景気停滞は、時に「大恐慌の最中における景気停滞」(“the recession within the Depression”)と呼ばれることがある。1937-38年にアメリカ経済を景気停滞が襲ったのは、大恐慌からの回復が未だ不完全で、失業率が依然として非常に高い水準にとどまっていた時期のことだった。1937-38年の景気停滞は、それまで景気回復基調にあった経済に対して破滅的なほどの規模で冷や水を浴びせることになった。1937-38年の景気停滞下では、実質GDPが11%ポイント低下し、鉱工業生産が32%ポイントも低下することになったのである。1937-38年の景気停滞は、20世紀中にアメリカが経験した景気停滞のうちで(1929-32年、1920-21年に次ぐ)3番目に深刻な停滞だったのだ。

1937-38年の景気停滞の原因としてしばしば指摘されるのが、財政・金融政策の引き締めである。クリスティーナ・ローマー(Romer 2009)をはじめとした幾人かの論者によると、1937-38年の景気停滞は、経済が依然として弱々しい中にあって早まったかたちで景気刺激策から手を引くことの危険性を例証しており、目下の状況にとっても大きな関連を持つ歴史上のエピソードとのことだ。

しかしながら、1937-38年の景気停滞をめぐっては、ちょっとしたミステリーが存在する。景気停滞の原因として頻繁に指摘される2つの政策決定――財政赤字の縮小(財政緊縮)、ならびに、預金準備率をそれまでの2倍の水準に引き上げたFRBの決定――は、実際に観察された規模の生産量の落ち込みをもたらすに足るだけの効果を備えているようには見えないのである。例えば、クリスティーナ・ローマー(Romer 1992)も述べているように、生産量の落ち込みの多くの原因を財政政策の変化に求めるのは「非常に困難であろう」〔原注;カリー・ブラウン(E. Cary Brown)のかの有名な論文(Brown 1956)では、生産量の落ち込みのうちで財政政策の変化によって説明できる割合は、4分の1以下であると結論付けられている〕。また、預金準備率をそれまでの2倍の水準に引き上げたFedの決定を対象にした研究の大半――最新の研究としては、Calomiris et al(2011)を参照せよ――では、預金準備率の引き上げは、民間の銀行に対してそれほどインパクトを持たなかったと結論付けられている。当時、民間の銀行は大量の超過準備を抱えていたこともあって、預金準備率の引き上げ後に準備預金を積み上げようとする動きは大して見られなかったのである。

「財政緊縮」と「預金準備率の引き上げ」という2つの要因によっては1937-38年の景気停滞を完全には説明できないとなると、一体他に何がそれを説明できるのだろうか? 1937-38年の間に、深刻な貨幣的なショック(monetary shock)が生じたことは疑いない。以下の図1に示されているように、1934年から1936年にかけてマネーサプライ(M2)は年率およそ12%の伸びでコンスタントに増加していたが、1937年初頭に入ると突然その伸びがストップし、同年の後半にはその伸び率はマイナスにさえなっているのである。しかしながら、この貨幣的なショックは、預金準備率の引き上げに起因するものではなく、しばしば見過ごされがちな財務省による1936年12月の決定――金の流入をすべて不胎化する決定――にその原因があったのである。

図1 アメリカにおけるマネーサプライ(M2);1934年―39年


1934年1月にドルと金(ゴールド)が金1オンス=35ドルの交換レートで再ペッグされ、アメリカは実質的に金本位制に復帰することになる。マネタリーベースの85%に相当する量の金準備が保有されることになり、金準備の増減に伴ってマネタリーベースも増減することになった。1930年代中頃のアメリカには大量の金が流入し、それに伴って金融政策が緩和されることになった。金の流入に伴う金融緩和は、この間の景気回復を支えた主要な要因であった――この点については、Romer(1992)を参照せよ――。

しかしながら、ルーズベルト政権がインフレの加速を懸念し始めるや、財務省は1936年12月に金の流入をすべて不胎化する決定を下した。金が流入してきてもFedが供給する準備預金が自動的に増えないように――準備預金が増えると、やがてマネタリーベースやマネーサプライの増加につながる――、新たに流入してきた金を休眠勘定(inactive account)に繰り入れるようにしたのである〔訳注;金不胎化政策の具体的な手続きについては、Irwin(2011)のpp. 254を参照のこと〕。その結果として、金の流入にもかかわらずマネタリーベースは増加せずに、一定の水準に保たれることになったのである。

1937年の春になると景気が鈍化し始め、秋には景気停滞下にあることが一目瞭然となった。1938年2月に財務省は誤りを認めて、金を不胎化する政策を取り止めることを決定した。1938年4月に財務省は出口戦略に乗り出し、「休眠中の」金準備の非不胎化を始める――「休眠勘定」に繰り入れられていた金をFedが保有する金準備に振り替えて、Fedに準備預金を拡大させる――ことになる。そして1938年6月に景気回復が始動することになったのである。

金不胎化政策がマネタリーベースに及ぼした効果は、以下の図2に示されている。図2によると、1934年から1936年にかけて、金準備もマネタリーベースも一貫して増加していることがわかる。しかしながら、1937年に入ると、金準備はそれまで同様に増加し続けているものの、金不胎化政策のためにマネタリーベースは一定の水準に保たれることになった。不胎化されなかった(Non-sterilized)金準備〔訳注;マネタリーベースの裏付けとして利用できた金準備〕は、1938年4月に財務省が金準備の非不胎化に乗り出すまで一定の水準に保たれることになったのである。

図2 アメリカにおけるマネタリーべースと金準備;1934年-39年


「金不胎化政策」と「預金準備率の引き上げ」がそれぞれマネーサプライに対して及ぼした効果は、次のように分解して考えることができるだろう。すなわち、金不胎化政策は、マネタリーベースに対する作用を介してマネーサプライに影響を及ぼした一方で、預金準備率の引き上げは、貨幣乗数に対する作用を介してマネーサプライに影響を及ぼすことになったと考えられるのだ。私が執筆したばかりの論文によれば(Irwin 2011)、1937年にマネーサプライの伸びに生じた急ブレーキを説明する上では、貨幣乗数の変化よりも、マネタリーベースの変化の方がずっと重要であったことが見出されている〔訳注;つまりは、1937年にマネーサプライの伸びに急ブレーキをかけた要因としては、(マネタリーベースに影響を及ぼした)金不胎化政策の方が、(貨幣乗数に影響を及ぼした)預金準備率の引き上げよりも重要だったということ〕。

1937年の後半から1938年の中頃にかけて、アメリカへの金の流入がストップ(停止)することになったが、この事実についても簡単に説明しておこう。金の流入が突然ストップした原因の一部は、ルーズベルト政権が景気後退に対処するために再度――1933年の初頭に、大恐慌から抜け出すために実施されたのと同じように――ドルの切り下げに乗り出すのではないかと投資家らが恐れを抱いたためだった――当時の金融市場では、「一度だけ僕をだましたなら君の恥、二度も僕をだましたのなら僕の恥」(“Fool me once, shame on you, fool me twice, shame on me”)との見解が広がっていた――。しかし、1938年9月にヒットラーがチェコスロバキアに領土の割譲を要求した――いわゆる「ミュンヘン危機」――のがきっかけで、ヨーロッパで戦争が勃発することになるのではないかとの恐れが広がるようになると、再びアメリカへ向けて金が大量に流入し始めることになったのである。

過去の過ちを避けるつもりであれば、過去の過ちの中身について正確に評価することが重要だ。1937-38年の景気停滞があそこまで深刻になった原因は、「財政緊縮」や「預金準備率の引き上げ」のせいではなかった。その原因は、財務省が決定した「金不胎化政策」にあったのであり、金の不胎化に伴って生じた「貨幣的なショック」は決して穏やかなものではなかった。金不胎化政策の結果として、マネタリーベースの伸び率はゼロ%にまで落ち込むことになったのである。Fedに対して大恐慌下における稚拙な政策運営を叱責する非難の矢が向けられることがあるが、こと1937-38年の景気停滞下において生じた貨幣的なショックに関しては、その責任は財務省にあったのである。

1937-38年の景気停滞はとうの昔の出来事ではあるが、このエピソードは今もなお、政策への教訓を投げ掛けている。景気回復の足取りが鈍いにもかかわらず、インフレーション――今と同じように、1937-38年当時もインフレ率は極めて低かった――に対する予防的な金融引き締め(pre-emptive monetary strike against inflation)に乗り出せば、その結果として破滅的な景気停滞がもたらされかねない。1937-38年の景気停滞は、そのような教訓を示唆しているのだ。


<参考文献>


○Brown, E Cary (1956), “Fiscal Policy in the 'Thirties: A Reappraisal(JSTOR)”, American Economic Review, 46: 857-879.
○Calomiris, Charles W, Joseph Mason, and David Wheelock (2011), “Did Doubling Reserve Requirements Cause the Recession of 1937-1938? A Microeconomic Approach”, NBER Working Paper No. 16688, January(NBER WPとは別のバージョンのWPはこちら(pdf)).
○Irwin, Douglas A (2011), “Gold Sterilization and Recession of 1937-38(pdf)”, Working paper.
○Romer, Christina D (1992), “What Ended the Great Depression?(pdf)”, Journal of Economic History,52:757-784.
○Romer, Christina D (2009), “The Lessons of 1937”, The Economist, 18 June.

2011年11月1日火曜日

Henry Farrell 「経済学者間での意見の不一致に関するシンプルなモデル」

Henry Farrell, "A simple model of disagreement among economists"(Crooked Timber, March 17, 2011)

ライアン・アベント(Ryan Avent)マット・イグレシアス(Matt Yglesias)が「公的な議論の場では経済学者間での意見の不一致が実際よりも誇張されてしまうことになるのではないか」と語っている。こういった話題についての古典的ともいってよい見解は、アラン・ブラインダー(Alan Blinder)が『Hard Heads, Soft Hearts』(邦訳;『ハードヘッド ソフトハート』)の中で「経済政策に関するマーフィーの法則」と名付けた以下のような見解である。すなわち、


Economists have the least influence on policy where they know the most and are most agreed; they have the most influence on policy where they know the least and disagree most.
(「エコノミストの知識がもっともよくゆき届いており、彼らの間でもっとも意見の一致が見られるとき、エコノミストの経済政策に与える影響力は最小となる。逆に、エコノミストの知識がもっとも不足しており、意見のバラツキがもっとも大きいとき、エコノミストの影響力は最大となる。」(邦訳、pp.16より引用))


この見解を目にした時からずっと私は個人的に「果たしてこの見解は事実を的確に捉えているのだろうか」と思案してきたものである。ブラインダーのこの見解は、(a)経済学者間での意見の不一致の程度、と、(b)公的な議論の場において経済学者の存在・意見がはっきりと目立つそのさま、との間に容易に観察できる相関関係が存在する(訳注;経済学者間での意見の不一致の程度が大きければ大きいほど、公的な議論の場で経済学者の存在・意見がますます一層目立つ)ことを説明する助けとなるものである。しかし、「目立つ」(prominence)というのは「影響力がある」(influence)というのとは同じではなく(「目立つ」ならば「影響力がある」とは必ずしも言えず)、逆もまた言えるのではないか(「影響力がある」ようならば「目立つ」とは必ずしも言えない)とも考えざるを得ず、それゆえ、経済学者が意見を異にする際に政策に対して影響力を持つとはいってもその影響力はそれほど大したものではないのではないかと個人的には感じるのである。以下、この点についてモデル(モデルといっても非常にカジュアルな意味でそう呼んでいることを了解していただきたい)を用いて素描してみることにしよう。

(I) 政治アクターの中には、それ(=ある特定の経済政策)が経済学的に理にかなったものかどうかにかかわらず、特定の経済政策がもたらす結果に対して強固で安定的な選好(stable preferences)を有する主体が存在する。例えば、政党や利益集団は、規制を設けることで一国全体の経済成長が抑制されることになったとしても、その規制によって自らの構成メンバーや自らの支持者に対して便益が再分配されることになるとすればそのような規制の実施を望むことだろう。一方で、このような規制の実施を通じた便益の再分配に対して異を唱える(先の政治アクターとは異なる利害を有する)政治アクターが一般的には存在することだろう。この政治アクターは(先の政治アクターに便益をもたらすような)規制の実施に反対したり、あるいは、自分自身や自らの支持者に対して好ましい結果をもたらすような別の規制の実施を求める声を上げたりすることだろう。こうして政治アクター間での利害の対立は激しい政治論争をもたらすことになる(と予想される)。

(II) 政治アクターの中には――彼らがその特定の経済政策に対して注目を寄せる限りにおいての話ではあるが――経済政策に対してそれほど強固な選好を有してはいないアクターが存在する。その典型は一般の人々(the public)である。特定の経済政策に対してそれほど強固な選好を有していない一般の人々は、専門家(今の文脈では経済学者)によって裏付けを与えられた(専門家が支持を与えた)政策を支持するような方向に説得される可能性を秘めている。

(III) 経済学者――特定の政策に対して支持・裏付けを与える専門家――は一連の(経済学に)特有の方法論やモデリング技術に依拠して分析を行ったり、政策を評価したりしているが、その方法論やモデリング技術からはいくつかの一般的な結論が導かれ示唆されるだけではなく、ちょっとしたごまかし(jiggery-pokery)(誰もがよく知る部分均衡モデルやフォーク定理など)と併用することで(経済学に特有の方法論やモデリング技術から)自らが好むような政策処方箋を支持する結論を導き出すことも可能である(この点については、D.マクロスキー(Donald McCloskey)の以下の論文“The Rhetoric of Economics”(pdf)を参照せよ)。さらには、経済学者の中には政治論争をたたかわせている対立する政治アクターの一方の側に優勢に働く議論に支持を与えるような理論(経済理論)的な見解を見つけ出すよう(おそらくは特定のイデオロギーに対するコミットメント(傾倒)あるいは金銭的なインセンティブ、もしくは両者の組み合わせを原因として)突き動かされる人物もいることだろう。

(IV) (特定の経済政策に対して)強固で安定的な選好を有する政治アクターは、様々な手段(快適な環境の下で開催される週末の学術的なセミナーに招待したり、あるいは直接的に金銭的な便宜を図ったりetc)を用いることを通じて、(特定のイデオロギーに対するコミットメント(傾倒)あるいは金銭的なインセンティブ、もしくは両者の組み合わせに基づいて)自らの陣営に対して支持を与えてくれる可能性のある経済学者が自らの陣営にとって便益をもたらしてくれるであろう経済政策に対して実際にも理論的な支持を与えてくれるように促し、そうする(経済学者が特定の経済政策に対して理論的な支持を与える)ことで(特定の経済政策に対して)それほど強固な選好を有してはいない、あるいはそれほど明確な選好を有してはいない政治アクター――世間一般の人々――に対して影響を与えることが可能である。

ここで注記しておくと、私自身この簡単なモデルの大雑把なスケッチをありのまま受け入れるつもりはないという点は指摘しておこう。確かに、経済学的な思考方法(economic thinking)はこのモデルが示唆する以上に確固とした首尾一貫性を備えており、ある立場を支持することは他の立場を支持すること以上に(訳注;ある立場を支持するためには議論における首尾一貫性を大きく犠牲にしないといけないなどして)議論を呼ぶということがあるだろう。また、アイデアというのは、単に既存の政治的なアジェンダをイデオロギー的に正当化するものにすぎない、というわけでもない。しかしながら、そうではあるとしても、この簡単なモデルから予測される結果は何ほどか興味深いかたちで現実の結果と結び付くのである。このモデルのあり得る(それなりに合理的な)予測は以下のようにまとめることができるかもしれない。

(1) 経済学者間での論争の内容が政治アクターの目にとまる(政治アクターの気をそそる)ことがないよう状況においては、経済学者は外部からの政治的な影響から自由でいられることだろう。このような状況においては、政治アクターにとっては特にこれといった関連性を有することのない経済学上の多くの命題が語られることだろう。そのうちの命題のいくつかは単に政治家やその支持者にとってこれといった大きな分配上の効果をもたらすものではないために、またそのうちのいくつかの命題はすべての政治アクターにとって受け入れがたい(repugnant)ものであるために、政治的に関連性がないとみなされることだろう。このような状況においては、経済学者の間で意見対立を生じさせるような外的な圧力は存在せず、(経済学者が本来的に備える、何かと衝突しがちな性向(vexatiousness)が許す限りにおいてではあるが)経済学者らは互いに幸せな意見の一致(happy concordance)を見ることになるだろう。

(2) 経済学者間での論争の内容が政治アクターの目にとまる(政治アクターの気をそそる)ようなものであり、かつ、経済学者の間で正真正銘のコンセンサス(意見の一致)が存在するような状況においては、経済学者の影響力は最大のものとなることだろう。このような状況においては、その利害が(経済学者間での)コンセンサスと対立するような政治アクターに対して経済学者の影響力が及ぶことはないだろうが、一方で、その利害がコンセンサスと合致するような政治アクターからはコンセンサスを擁護する姿勢を期待することができ、加えて、経済学者による影響を受け入れる姿勢にあるような一般の人々の中には経済学者間のコンセンサスを聞き入れる人が現れる可能性がある。しかしながら、この(経済学者にとって)幸せな状況はかなり不安定なものである、という点には注意しておこう。というのも、その利害が経済学者間のコンセンサスと対立することで不利な立場に置かれている政治アクターは、コンセンサスに不満を抱いている可能性のある経済学者が公に異議を表明するよう支援の手を差し伸べて励ましたり、コンセンサスに対する反論を聴取するべくその経済学者を1週間にわたる無駄仕事(boondoggles)の旅に自らの費用持ちで何度も連れ出したりするなどして、経済学者間でのコンセンサスを突き崩そうとする強いインセンティブを持つだろうからである。経済学者が有するその政治的な影響力の程度に応じて、不利な立場に置かれた政治アクターは、公的な議論の場で自らの陣営に対して支持を与えてくれる「味方の」経済学者に頼ることができるようにするために、経済学者間でのコンセンサスを突き崩し、もって経済学者間で意見の対立が生まれるよう試みるインセンティブを有することだろう。そういうわけで、この(2)の状況は遅かれ早かれ次のような(3)の状況へと移行することになるだろう。

(3) 経済学者間での論争の内容が政治アクターの目にとまる(政治アクターの気をそそる)ようなものであり、かつ、経済学者間での意見対立が存在するような状況においては、経済学者が政治的な結果に対して及ぼす影響は控え目なものとなることだろう。この状況においては、対立する政治アクターのどちらの側も自らの陣営の主張を裏付け、自陣にとって有利になるようなモデルや計量経済学的な結果etcを提供してくれるような経済学者を抱えていることだろう。この状況(この状況は「ジョン・ロット」('John Lott’)均衡とでも呼ぶことが可能(欄外訳注1)かもしれない)は、(2)の状況とは異なり、例外的なケースを除いては極めて安定していることだろう。

以上で素描したモデルからはどのような予測が導かれるだろうか? 冒頭で触れたブラインダーの格言と同様に、このモデルは、(a)経済学者間での意見の不一致の程度、と、(b)経済学者が政治論争に関与(involvement)する程度、との間に観察可能な相関関係が存在するだろうことを示唆している。経済学者の間では人気があるが、どの政治アクターにとっても等しく気がそそられることがないような「あなたのお皿にある野菜を食べなさい」('Eat your greens')といった類の種々の命題は、ブラインダーの格言でも述べられているように、どの政治アクターからもことごとく無視されることだろう。しかし、ブラインダーの格言とは異なり、このモデルによれば、経済学者が互いに意見を異にするような状況においては、それぞれ別の政治アクターのために語る経済学者が互いに対立する意見をたたかわせることになるために一般の人々に対する影響力は少なくとも部分的に相殺されることになるので、経済学者の影響力は取り立ててそれほど大きなものではないだろうことが示唆される。また、このモデルによれば、経済学者の影響力は、経済学者が互いに意見を異にするような状況においてよりも、政治論争に積極的に参加する政治アクターのうちどちらか一方の側を経済学者が一致して支持するような状況-稀でありかつ束の間の(不安定な)状況-においての方がずっと大きいだろうことが示唆されることになる。

(追記)このモデルは、「公共選択論」という学問領域が登場してきた理由に関する公共選択論的な簡潔な説明を内に含んでいる。この点を明らかにすることは読者への練習問題として残しておこう。

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(欄外訳注1)なぜ(3)の状況を「ジョン・ロット」均衡と呼び得るのかという点については、イアン・エアーズ著/山形浩生訳『その数学が戦略を決める』(特に第7章の7.9節(ジョン・ロットってだれ?)と7.10節(でもそれがまちがっていたら?)あたり)をご覧になればヒントが得られるかもしれません。