2014年10月22日水曜日

Itay Goldstein and Assaf Razin 「金融危機に備わる3つの顔 ~銀行取付け、信用市場の凍結、通貨危機~」

Itay Goldstein and Assaf Razin, “Theories of financial crises”(VOX, March 11, 2013)

金融危機は、その特徴に応じて、大まかに3つのタイプに分類することができる。「銀行危機」、(信用取引に伴う摩擦を原因とする)「信用市場の凍結」、「通貨危機」である。今回世界全体を襲った金融危機は、これら3つの特徴をすべて兼ね備えており、「銀行危機」と「信用市場の凍結」と「通貨危機」とが互いに影響を及ぼし合いながら世界経済全体に大きな動揺をもたらすことになったのであった。金融危機をテーマとする過去30年以上にわたる先行研究の足跡を辿った上で言えることは、目下の状況を正確に捉えるためには、金融危機を引き起こす数ある要因を同時に組み込んだモデルの開発が何よりも待たれるということである。

金融システムおよび通貨システムの役割は、稀少な資源の効率的な配分を促すことを通じて、実体経済活動の円滑な働きを支えることにあると広く理解されている。事実、金融システムの発展が資源の効率的な配分を促すことで経済の成長を後押ししていることを裏付ける実証的な証拠も数多い(Levine 1997, Rajan and Zingales 1998)。その一方で、過去の歴史を振り返ると、金融システムや通貨システムに深刻な機能不全をもたらす金融危機が頻発していることも残念ながら事実だ。

多くの経済学者の意表を突いて、世界全体の金融システムが大きな混乱に見舞われてから、もうかれこれ5年になろうとしている。アメリカやヨーロッパでは、主要な金融機関が相次いで経営危機に追いやられ、それに伴って、貸出をはじめとした金融取引が急激な縮小を余儀なくされることになった。ユーロ圏経済は、今なお厳しい状況に置かれている。今回の危機の背後では、どのような要因がうごめいていたのか? 危機から抜け出すためには、どうすればいいのか? 将来再び今回のような危機に陥らないようにするためには、どうしたらいいのか? これら一連の問いに答えを見出すことが、多くの経済学者にとって最優先課題となっている〔原注;過去数年にわたる世界的な金融危機の実態については、多くの学者が詳細に取り上げている。その中でも、Brunnermeier(2009)やGorton(2010)を参照されたい〕。

今回の危機は、過去に発生した金融危機に備わる主要な特徴を同時に併せ持っている。金融危機の背後でどのような要因が働いているかを説明し、金融危機に対処するための処方箋を提供するために、これまでに長年にわたって数多くの経済理論の開発に多大な努力が捧げられてきている。金融危機を説明するためにこれまでに開発されてきた経済理論の内容を正確に理解し、今後の課題として既存の理論をどのような方向に彫琢していく必要があるかを明らかにすることは、我々が直面している目下の課題を克服するためにも、金融システムを改革して将来同じような事態に陥らないように備えるためにも、欠かせない作業である。

つい最近我々二人は、金融危機をテーマとする過去30年以上にわたる膨大な先行研究の足跡を辿り、その結果を展望論文としてまとめ上げたばかりである(Goldstein and Razin 2012)。過去の金融危機は、その特徴に応じて、3つのタイプに分類することが可能であり、これまでの先行研究も同じく3つの領域に細かく区別することができる〔原注;今回の論説のもととなる論文(Goldstein and Razin 2012)では、数多くの先行研究を参考文献として掲げている。今回の論説では、あくまでもその一部だけにしか触れられていない点に注意されたい〕。まず第1の研究領域は、銀行危機(あるいは、銀行パニック)をテーマとするものである。そして第2の研究領域は、信用取引に伴う摩擦と、信用市場の凍結をテーマとするものである。最後に第3の研究領域は、通貨危機をテーマとするものである。今回世界全体を襲うことになった金融危機は、これら3つの特徴(銀行危機、信用市場の凍結、通貨危機)をすべて兼ね備えており、「銀行危機」と「信用市場の凍結」と「通貨危機」とが互いに影響を及ぼし合いながら世界経済全体に大きな動揺をもたらしたというのが我々の判断である。以下では、金融危機をテーマとする先行研究の概要を3つの研究領域ごとに簡単に振り返ってみるとしよう。

銀行危機

銀行危機(あるいは、銀行パニック)をテーマとする研究は、1983年のダイアモンド&ディヴィグ論文(Diamond and Dybvig 1983)にまで遡る。銀行は、預金者から「短期」で借り入れた資金(預金)を基にして「長期」貸出(銀行ローン)を行う「資産変換機能」を果たしているが、そのおかげで、短期的な(あるいは、緊急の)資金の必要性に迫られる可能性のある投資家に対してリスクシェアリングの機会が提供されるかたちになっている〔訳注;投資家が自ら「長期貸出」を行った場合、緊急に資金が必要となっても即座にその貸し出しを引き揚げることができず、必要な資金を調達できない可能性がある。一方で、投資家が銀行に預金を預け、銀行がその預金を基にして「長期貸出」を行う場合、投資家は間接的に(銀行を介して)長期貸出を行っていると言えるが、緊急に資金が必要となった場合には預金を引き出してそれに応じればよい〕。しかしながら、銀行が資産変換機能を果たすことには、リスクも伴う。大勢の預金者が大挙して預金の引き出しに殺到する、銀行取付け(bank run)に晒される恐れがあるのだ。銀行システムは、銀行取付けの可能性と常に隣り合わせであり、そのような脆弱性の根底にあるのは、「協調の失敗」(coordination failure)である。預金の引き出しに殺到する預金者の数が多いほど、銀行が倒産する可能性も高くなるため、ある程度の数の預金者が預金を引き出そうとすると、他の預金者たちもできるだけ早く預金を引き出そうとする強いインセンティブを持つことになるのである。

過去の歴史を振り返ると、銀行システムは度々取付け騒ぎに見舞われている(詳しくは、例えばCalomiris and Gorton(1991)を参照されたい)。20世紀初頭に入ると、銀行取付けの問題に対処するために、預金保険制度が導入されることになったが、その結果として、銀行取付けが発生する可能性は大きく抑えられることになった。しかしながら、預金保険で預金が全額保護されていないケースだったり、預金保険制度が導入されていない国では、銀行取付けは依然として金融危機を彩る特徴の一つとなっている。例えば、過去20年の間に、東アジアやラテンアメリカでは、多くの銀行取付けが発生している。今回の危機の過程でも、イギリスのノーザン・ロック銀行を対象として「教科書」通りの取付け騒ぎが発生し、大勢の預金者たちが預金の払い戻しを求めて店頭に殺到したことはご存知の通りである(Shin 2009)。銀行システムだけに限定せずに金融システム全体に目を向けると、(預金者が預金の払い戻しを求めて銀行に殺到する)伝統的な取付けの範疇には含まれないが、取付けと呼ぶにふさわしい現象は数多く発生している。例えば、今回の危機の過程では、投資銀行が短期資金を調達するために利用するレポ市場でも取付けが発生しており(Gorton and Metrick 2012)、そのせいでレポ市場では突如として流動性が枯渇し、資金の調達が困難となったのであった。ベア・スターンズやリーマン・ブラザーズといった名だたる金融機関が経営危機に追いやられた理由も、レポ市場における取付けにその原因があったのである。それ以外にも、マネー・マーケット・ファンド(MMF)や資産担保コマーシャルペーパーを取り扱うマーケットでも取付けは発生しており(Schroth, Suarez, and Taylor 2012)、オープンエンド型投資信託を取り扱うマーケットは、「協調の失敗」による脆弱性に日常的に晒されていると指摘する研究もある(Chen, Goldstein, and Jiang 2010)。

銀行危機をテーマとする研究領域でとりわけ重要な政策課題は、金融システムを舞台とした「協調の失敗」とそれに起因する取付け騒ぎがもたらす被害をいかにして回避するかという点にあると言えるだろう。預金保険はこれまでにそれなりの効果をあげてきたと評価できるが、預金保険はモラル・ハザードを引き起こす可能性を伴っており〔訳注;預金保険によって預金の一部(あるいは、全額)が保護されていると、預金を預けている銀行が破綻したとしても預金の一部(あるいは、全額)は手元に戻ってくるため、預金者は銀行の行動にそれほど注意を払わなくなる可能性がある。預金者による監視の目が緩むと、銀行は貸出先の審査にあたって手を抜く可能性がある〕、その点も真剣に考慮せねばならない。「最適な」預金保険制度の設計に向けて研究すべきことは、まだまだ残されているのだ。比較的最近になって発展を見せている経済理論として「グローバル・ゲーム」と呼ばれる一連のモデルがあるが(Carlsson and van Damme 1993, Morris and Shin 1998, Goldstein and Pauzner 2005)、このモデルを使えば、預金保険の便益(銀行取付けを防ぐ効果)とコスト(モラル・ハザードを引き起こす可能性)を同時に分析することが可能となり、「最適な」預金保険制度が備えるべき特徴についても手掛かりが得られるようになるかもしれない。

信用取引に伴う摩擦と信用市場の凍結

銀行危機をテーマとする研究領域では、銀行の預金者だったり銀行に対する貸し手だったりの行動に焦点が置かれている。言い換えると、銀行のバランスシートの「負債」の側に焦点が合わせられているわけである。しかしながら、金融システムにおける問題は、銀行のバランスシートのもう一方の側である「資産」の側に起因していることも珍しくない。信用市場〔訳注;資金が貸し借りされる市場のこと。その例としては、銀行ローン市場を挙げることができるが、銀行ローン市場では、銀行が資金の供給者(貸し手)であり、銀行からお金を借り入れる主体が資金の需要者(借り手)ということになる〕における均衡では、銀行による貸出の量だけではなくその質も決定されることになるが、信用取引に伴う摩擦のために、銀行は、悪質な借り手から自らを守るために貸出を渋る(ローンの供給を抑える)可能性があるのである。

信用市場において信用割当(credit rationing)〔訳注;信用に対する需要(資金の借り入れ需要)が供給を上回る状態。信用市場で成立する金利が、信用に対する需要と供給を等しくする水準を下回っている状態とも言える〕が発生する可能性を理論的に明らかにしたのが、1981年のスティグリッツ&ウェイス論文(Stiglitz and Weiss 1981)である。通常の経済理論の立場からすると、需要と供給の間にギャップがあれば、価格が変化して最終的には(均衡においては)割当は解消されるはずである〔訳注;信用に対する需要が供給を上回っている(信用割当が存在する)場合は、需給が一致するところまで金利が上昇するはず、ということ〕。しかしながら、銀行がローンの金利(貸出金利)を変化させると、それに伴って、ローンを借りにくる相手(借り手)の「質」も変化する可能性がある。金利の上昇に伴って借り手の「質」が悪化するようであれば、信用割当が存在していても、金利は上昇せずにそのままの水準にとどまる可能性があるのだ。信用割当が発生する背後には、信用取引に伴う2つの摩擦の存在が控えている。「モラル・ハザード」と「逆選択」である。1997年のホルムストローム&ティロール論文(Holmstrom and Tirole 1997)で定式化されたモデルが一大転機となって、この2つの摩擦(とりわけ、モラル・ハザード)が銀行の貸出(ローン供給)行動に及ぼす影響を探る膨大な研究が量産されることになった。銀行ローンの借り手が銀行の監視の目を逃れて好きなように(銀行から借り入れた)資金を流用できるようであれば、資金の貸し手である銀行としても、そう易々とローンの貸出に応じるわけにはいかない。銀行(貸し手)から借り手へと資金がスムーズに貸借されるためには、借り手に自分の好きなように資金を使わないようにさせることが重要となってくる。そのための方法の一つが、借り手に「身銭を切らせる」(“skin in the game”)――例えば、担保を出させる――というやり方だ。借り手によるモラル・ハザードを防ぐためには、借り入れた資金を投じたプロジェクトの成功に向けて借り手が熱を入れるように工夫する必要があるのだ。しかしながら、「身銭を切る」余裕のある借り手の数は限られているので、銀行による貸出の量も限られることになる。景気が悪化するのに伴って「身銭を切る」余裕のある借り手の数が減るようなら、銀行による貸出の量も減ることになり、やがては金融危機が招かれる恐れすらある。

今回の危機の過程でも、信用取引に伴う摩擦が信用市場の機能不全を引き起こす一因となっていたことは疑いない。2008年に金融システムを突如として襲ったショックの後に、銀行ローン市場でも、インターバンク市場(銀行間取引市場)でも、信用のやり取りが凍結するに至ったが、その理由は、信用取引に伴う摩擦が原因で当初のショックが増幅されたせいである可能性があるのだ。

信用取引に伴う摩擦がマクロ経済(景気循環)に及ぼす影響の解明に向けて、信用取引に伴う摩擦をマクロ経済モデルに組み込む試みがここにきて盛んになっている。そのような試みの先駆けとも言えるバーナンキ&ガートラー論文(Bernanke and Gertler 1989)や清滝&ムーア論文(Kiyotaki and Moore 1997)では、信用取引に伴う摩擦は、当初のショックを増幅させるだけでなく、当初のショックが消え去った後もその影響を持続させる役割を果たすことが明らかにされている。この線に沿ったつい最近の代表的な試みでは(Gertler and Kiyotaki 2010, Rampini and Viswanathan 2011)、マクロ経済モデルに金融仲介部門が明示的に組み込まれ、金融仲介部門とそれ以外の部門の間の動学的な相互作用が分析されている。金融仲介部門を組み込んだマクロ経済モデルが今後発展を見せることになれば、今回の危機の過程で各国の政府が採用した数々の政策について精緻で実りある議論を行える舞台が用意されることになるだろう。

通貨危機

金融危機に備わる重要な側面の一つとして、政府の関与、とりわけ政府が採用している為替レジームの崩壊も見逃してはならないだろう。1970年代初頭におけるブレトンウッズ体制の崩壊をはじめとして、多くの通貨危機は、政府が固定相場制度を維持しようと試みる中で、それ以外の政策目標との間に齟齬が生じる結果として引き起こされる傾向にある。固定相場制度の維持とそれ以外の政策目標との齟齬が積もり積もって、為替レジームの突然の崩壊が引き起こされるわけである。通貨危機をテーマとする研究の出発点をどこに求めるかについては色々と意見があるだろうが、我々二人の展望論文では、クルーグマンらによる第一世代モデル(Krugman 1979, Flood and Garber 1984)と、オブスフェルドによる第二世代モデル(Obstfeld 1994, 1996)をその出発点に定めている。

通貨危機の第一世代モデル&第二世代モデルは、ユーロ圏経済が今現在置かれている状況を理解する上でも大いに示唆に富むモデルである。通貨危機の第一世代モデル&第二世代モデルの礎となっているのは、かの有名な「国際金融のトリレンマ」だ。「国際金融のトリレンマ」によると、①国境を越えた資本の自由な移動、②独立した金融政策、③固定相場制度(あるいは、為替レートの安定)という3つの政策目標のうち、一国の政府が同時に追求できるのは2つだけだとされる。ユーロ圏の各国は、①と③を同時に追求するのと引き換えに②をあきらめたわけだが、その結果として(金融政策を自国の事情にあわせて自由に操れないために)、金融危機の余波を吸収するためにも、国債の価格を維持するためにも、限られた余地しか残されていない状況に追いやられる格好となってしまった。「ユーロ圏の各国政府には、固定相場を維持する意志も国債を償還する意志もないのではないか」と疑いを持たれるようであれば、投資家や投機家が大挙してユーロや国債の投げ売りに乗り出し、そのせいでユーロ圏経済が抱える問題はさらに深刻さを増す可能性がある。ユーロ圏の各国は、政府債務のデフォルトを宣言するか、もしくは、ユーロを放棄するか(あるいは、どちらもともに選ばざるを得ないか)という重大な選択を迫られる可能性があるのだ。

通貨危機の第一世代モデル&第二世代モデルでは、政府の行動だけに焦点が合わせられているが、通貨危機の第三世代モデル(Krugman 1999, Chang and Velasco 2001, Goldstein 2005)では、銀行危機に加えて、信用取引に伴う摩擦がモデルに組み込まれている。第三世代モデルが開発されたきっかけは、1990年代後半に東アジアを襲った通貨危機にある。東アジアの通貨危機では、金融機関の破綻と為替レジームの崩壊が同時に発生したが、銀行危機と通貨危機とが絡み合って経済全体が極めて脆弱な状態に晒される可能性があることをまざまざと知らしめた事件だった。第三世代モデルも、ユーロ圏経済が今現在置かれている状況を理解する上で大いに示唆に富むモデルだ。ユーロ圏では、銀行危機と債務危機とが複雑に絡み合っており、ユーロ圏経済の行く末がどうなるかは、その絡み合いがこの先どのような展開を見せるかに、かなりの程度左右されるのだ。

結論

今後の主要な研究課題は、これまでに触れてきた数々の「摩擦」――協調の失敗、インセンティブ問題、情報の非対称性、政府が採用する為替レジーム――をマクロ経済モデルの中に組み込んで、最適なポリシーミックスや政策の望ましい規模について定量的な結論を導き出すことにあると言えるだろう。中央銀行が、既存のモデルの代わりに、摩擦を組み込んだモデルを使い始めるようになれば、願ったりである。信用取引に伴う摩擦をマクロ経済モデルに組み込む試みは徐々にその気運が盛り上がりを見せているが、それ以外の摩擦を組み込む試みとなると、ほとんど手がつけられていない状態だ。あらゆる摩擦を組み込んだマクロ経済モデルの開発に取り組むことが今後の重要な課題だと言えるだろう。

もう一点だけ触れておくと、システムを脆弱にしたり金融危機を引き起こしたりする数ある要因の中からいずれか一つに焦点を定めて、その影響を分析するモデルは数多いが、数ある要因を同時にまとめて組み込んだモデルは今のところ――いくつかの例外はあるにせよ――著しく欠如していると言わざるを得ない。数ある要因を同時にモデルに組み込んではじめて、それぞれの要因が結果に及ぼす影響の強さを比較できるようになるし、それぞれの要因が互いにどのように作用し合っているかを理解できるようになる。システムを脆弱にしたり金融危機を引き起こしたりする数ある要因を同時に組み込んだモデルの開発に取り組むことも、今後の重要な課題であると言えるだろう。


<参考文献>

●Bernanke, Ben S, and Mark Gertler (1989), “Agency costs, net worth, and business fluctuations”, The American Economic Review 79, 14–31.
●Brunnermeier, Markus (2009), “Deciphering the liquidity and credit crunch 2007-2008”, Journal of Economic Perspectives 23, 77-100.
●Calomiris, Charles, and Gary Gorton (1991), “The origins of banking panics: models, facts, and bank regulation”, in Glenn Hubbard (ed.) Financial Markets and Financial Crises, University of Chicago Press.
●Carlsson, Hans, and Eric van Damme (1993), “Global games and equilibrium selection”, Econometrica 61, 989-1018.
●Chang, Roberto, and Andres Velasco (2001), “A model of financial crises in emerging markets”, Quarterly Journal of Economics 116, 489-517.
●Chen, Qi, Itay Goldstein, and Wei Jiang (2010), “Payoff complementarities and financial fragility: evidence from mutual fund outflows”, Journal of Financial Economics 97, 239-262.
●Diamond, Douglas W, and Philip H Dybvig (1983), “Bank runs, deposit insurance, and liquidity”, Journal of Political Economy 91, 401-419.
●Flood, Robert, and Peter Garber (1984), “Collapsing exchange-rate regimes, some linear examples”, Journal of International Economics 17, 1-13.
●Gertler, Mark, and Nobuhiro Kiyotaki (2010), “Financial Intermediation and Credit Policy in Business Cycle Analysis”, in Benjamin M. Friedman and Michael Woodford (eds.) Handbook of Monetary Economics.
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●Goldstein, Itay, and Ady Pauzner (2005), “Demand deposit contracts and the probability of bank runs”, Journal of Finance 60, 1293-1328.
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●Gorton, Gary (2010), Slapped by the Invisible Hand: The Panic of 2007, Oxford University Press.
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●Krugman, Paul R (1999), “Balance sheets, the transfer problem, and financial crises”, International Tax and Public Finance 6, 459-472.
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●Obstfeld, Maurice (1994), “The logic of currency crises(pdf)”, Cahiers Economiques et Monetaires 43, 189-213.
●Obstfeld, Maurice (1996), “Models of Currency Crises with Self-Fulfilling Features”, European Economic Review 40, 1037-1047.
●Rajan, Raghuram, and Luigi Zingales (1998), “Financial dependence and growth”, The American Economic Review 88, 559-586.
●Rampini, Adriano, and S Viswanathan (2011), “Financial intermediary capital(pdf)”, Working Paper.
●Schroth, Enrique, G Suarez, and L Taylor (2012), “Dynamic debt runs and financial fragility: evidence from the 2007 ABCP crisis(pdf)”, Working paper.
●Shin, Hyun S (2009), “Reflections on Northern Rock: the bank run that heralded the global financial crisis”, Journal of Economic Perspectives 23, 101-119.
●Stiglitz, Joseph E, and Andrew Weiss (1981), “Credit rationing in markets with imperfect information”, The American Economic Review 71, 393-410.

Andrea Prat 「金融規制の政治経済学」

Andrea Prat, “A political economy view of financial regulation”(VOX, March 9, 2009)

現状の金融規制は数々の欠陥を抱えていることは間違いない。しかしながら、ルールが現状のままであっても規制当局は手持ちの情報を使ってもっと積極果敢で迅速な対応をとれたはずである。ルール自体がいかに優れたものであっても規制当局者(ルールを執行する立場にある人間)がそのルールを忠実に執行するインセンティブを持たなければ意味はない。金融規制の分野で「規制の虜」と呼ばれる現象が発生する可能性がどの程度のものかを評価し、その可能性を少しでも低く抑えるために、規制当局はこれまでに入手した情報だけではなく規制対象となる産業界との人的なつながりの実態についても公表すべきである。

今回の金融危機で大きな打撃を受けたのは金融市場だけにとどまらない。金融システムの動向を監視・監督する役割を果たす金融規制に対する国民の信頼も地に落ちることになったのだ。金融システムの安定性を確保するために金融規制の分野における現状のルールをどのように変えたらよいかという問題を巡って活発で示唆に富む議論が繰り広げられている最中だが、ここではちょっと視点を変えて政治経済学的な観点からこの問題に切り込んでみることにしよう。

今回金融危機に見舞われた多くの国における金融規制の体系は時代遅れどころか最先端というにふさわしい特徴を備えていた。しかしながら、規制が効果を上げるかどうかは(法律をはじめとした)ルールの質だけに依存するわけではなく、そのルールを執行する立場にある人間(規制当局者)のインセンティブにもかかっている。規制当局者が直面するインセンティブの中でもとりわけ重要となってくるのは規制当局が規制対象となる産業(民間企業)の虜となってしまう可能性(いわゆる「規制の虜」(regulatory capture)と呼ばれる現象(欄外訳注1)が発生する可能性)であり、この問題については長らくその重要性が指摘されてきているだけではなく公的規制をテーマとするテキストの中でも大きな関心が寄せられている(Laffont&Tirole 1993)(原注;ラフォンとティロールの共著であるこの本の第5部は「公的規制の政治学」(The Politics of Regulation)と題されており、本全体のおよそ3分の1の分量を占めている)。また、規制当局の独立性に疑問符が付く場合には好ましからぬ結果が招かれる可能性を示す実証的な証拠も数多い(Dal Bó 2006)。

金融規制の分野における現状のルールも完璧とは言えず改善の余地があることは疑いないだろう。しかしながら、規制当局者がルールを執行する上でどのようなインセンティブに直面しているかも同時に分析の対象に含めるべきなのだ。規制当局者がルールを忠実に執行するインセンティブを欠いていたり、ルールが目指す方向とは逆行する行動を選び取るよう促すインセンティブに晒されているような状況では、ルール自体がいかに優れたものであっても前途は暗いと言わざるを得ないだろう。

今回の金融危機の過程で規制当局が規制対象となる金融機関の虜となるような事態は果たして見られたのだろうか? この問題を考えるにあたって次の2つの質問を検討してみることにしよう。


規制当局は現状のルールと手持ちの情報をフルに活用したと言えるだろうか?

ルールが現状のままであっても規制当局は手持ちの情報を使ってもっと積極果敢で迅速な対応をとれたはずだというのが私の判断である。そのことを裏付ける典型的な例はバーナード・マドフ(Bernard Lawrence Madoff)が仕掛けた金融詐欺事件である。米国証券取引委員会(SEC)は詐欺の実態に関する情報を事前に得ていた。マドフが巨大なポンジ・スキームに手を染めている可能性については信頼できる情報源から密かに何度も繰り返しリークされていたのである。また、SECはこの問題に対処するための揺るぎない法的な権限も備えていた。証券詐欺規制法がそれである。それにもかかわらず、どうしてこんなにも大規模で古典的な手法を使った違法行為が見逃されることになったのだろうか?(原注;2003年に発生したいわゆるスタンフォード詐欺事件についても規制当局に対して事前に信頼できる情報源から情報がリークされていたことが判明している) それ以外にもポール・ムーア(Paul Moore)による内部告発の例もある。ムーアは当時イギリスの大手金融会社HBOSでリスク管理部門長を務めていたが、同社がリスクを過剰に取り過ぎていると内部告発を行ったのである(ムーアは内部告発を行った後に同社を解雇されることになった)。信頼できる情報源から警告が寄せられていたにもかかわらず、どうして英国金融サービス機構(FSA)(欄外訳注2)は重大な問題に発展しかねない事態に十分な真剣さを持って向き合わなかったのだろうか? HBOSはその後公的資金による救済を受けることになったわけだが、もし仮にFSAがムーアの内部告発を受けて即座に断固たる対応をとっていたとすればイギリスの納税者は何十億ポンドにも上る税負担をせずに済んでいた可能性がある。実際問題として規制当局には個別の金融機関の戦略を変更させるだけの権限はなかったという反論もあることだろう。しかしながら、FSAにしろSECにしろ手持ちの情報を基にして国民に対して警告を発することくらいは少なくとも可能だったはずである。自らと取引関係のある金融機関がどういったリスクをとっているかについて株主や貸し手、預金者たちに対してはっきりとした言葉で警告が発せられていたとしたら今頃どうなっていただろうか? これといって大差はないと言えるだろうか?


規制当局は「利益相反」の問題をどの程度抱えているだろうか?

いずれの公的機関も「独立性の確保」と「優秀な人材を確保する必要性」との間のトレードオフに直面しているが、とりわけ金融規制の分野は「利益相反」(conflict of interest)の問題に晒される高い可能性を秘めているようだ。例えば、FSAの現副長官(2009年当時)であるジェームズ・クロスビー卿(James Crosby)はかつてHBOS――内部告発を行ったポール・ムーアを解雇した会社――でCEOを務めていたが、2004年から2006年の時期にかけてはFSAの副長官とHBOSのCEOを兼務する状況にあったのである。言うなれば、規制される側の企業のトップが規制当局の挙動に監視の目を光らせていたようなものだ。競争政策をはじめとしたその他の分野でこれと同様の状況が考えられるだろうか? マイクロソフト社のCEOが(独占禁止政策を取り仕切る)米国連邦取引委員会(FTC)の委員に任命されるということがあり得るだろうか? 規制当局と規制対象となる企業との間に存在する人的なつながりの例はこれだけにとどまらない。FSAの非常勤委員8名のうち3名は現在(2009年現在)でも民間の金融機関で職に就いているようである(原注;その3名というのはピーター・フィッシャー(Peter Fisher)、デビッド・マイルズ(David Miles)、ヒュー・スティーブンソン(Hugh Stevenson)である。FSAのホームページにある略歴によると、フィッシャーはブラックロック、マイルズはモルガン・スタンレー、スティーブンソンはエクイタスならびにマーチャント・トラストでそれぞれ要職にあるとのことだ)。規制対象となる民間企業と人的な交流(つながり)を持つことは多少避けられない面もあるが、FSAの委員の席に規制対象となる企業のトップが居座る必要性が果たしてどれだけあるのだろうか?

金融規制というのはルールさえ用意すれば放っておいても自動的にその機能を発揮するような類のものではない。多くの国においては金融システムは非常に洗練されており、国民に対して多大な便益をもたらす可能性を大いに秘めている。優秀な弁護士や会計士といった人材も豊富であり、システムの運営を側面から支援する人的資源という面に照らしても文句なしである。しかしながら、金融システムがその潜在的な力を存分に発揮するためには能力が優れているだけではなくルールを忠実に執行するインセンティブを備えた規制当局者の存在が欠かせない。必要とあれば問題の所在を徹底的に追及し、規制対象となる金融業界に対して厳しい態度で臨むことも厭わない規制当局者の存在が欠かせないのだ。

今後の課題に目を転じることにしよう。規制当局者がルールを存分に活用する強いインセンティブを持つようにするためには具体的にどのような措置を講じたらよいだろうか?
  • 金融規制の分野で規制当局が規制対象となる金融機関の虜となる可能性がどの程度のものかを正確に評価するためにはまずもってこれまでの実状を知る必要がある。規制当局はこれまでにどのようなリーク情報を得たかを公開し、その情報に基づいて調査に乗り出した経緯がある場合はその調査結果もあわせて明らかにすべきである。例えば、FSAがHBOSだけではなくそれ以外の金融機関が抱えているリスクの実態についてどういった情報を得ていたか(あるいは知り得た状況にあったか)が明らかにされれば非常に有用な判断材料となることだろう。
  • 規制当局と規制対象となる企業の経営陣との間の人的なつながりの実態についても情報を明らかにすべきである。規制当局の委員を務める人物(および規制当局で働く官僚)が委員に任命される前、委員在任中、そしてその職を辞した後にそれぞれどのような地位にあったか(あるか)について情報を公開すべきである。その種の情報が明らかにされれば、規制対象となる企業との人的なつながりが果たしてルールの厳格な適用を妨げているかどうかを検討することが可能となるだろう。
  • 上記で公開された情報を精査し、その分析結果に照らして「利益相反」の問題に対処する策を講じる必要がある。その場合、現時点における産業界との人的なつながりだけではなく、将来における産業界との人的なつながり(いわゆる「天下り」問題)(訳注;規制当局で委員を務めた人物や規制当局で働く官僚がその職を辞した後に規制対象となっている企業に天下ることを認めてもいいかどうか)も検討の対象となることだろう。その対策の具体的な内容が固まった暁には国民に向けて大々的に公表し、規制当局は社会全体の利益を何よりも優先する旨を確約すべきである。
成果主義(成果に基づく報酬の支払い)というアイデアは最近はあまり受けがよくないようだが、規制当局者にルールを忠実に執行するインセンティブを持たせる手段の一つとして金融システムの健全性がどの程度保たれているかに応じて規制当局者に支払う報酬の額を決める(訳注;そうすることで金融システムの健全性を保つことが規制当局者自身の利益(自己利益)ともなるように仕向ける)という大胆な可能性を探ってみるべきであろう。そのためには金融システムの健全性(あるいはその反対に脆弱性)をできるだけ正確に測る指標を作成する必要があるが、仮にそのような指標が作成できた暁には規制当局者に支払う報酬の額をその指標に照らして決める(その指標の変動に応じて報酬の額を上下させる)という一種の成果主義的な報酬制度を導入する道が開かれることになる。仮にそのような報酬制度が実際にも導入される運びとなったら、規制当局者は(実際のところは自己利益に従って行動しているものの結果的に)社会全体の利益を優先しているかのように振る舞うよう促される可能性があるのだ。


<参考文献>

●Jean-Jacques Laffont and Jean Tirole (1993), A Theory of Incentives in Procurement and Regulation, MIT Press.
●Ernesto Dal Bó (2006), “Regulatory Capture: A Review,” Oxford Review of Economic Policy, 22(2): 203-225.


(欄外訳注1) 規制対象となる企業が規制当局に対して政治的な働きかけを行う結果として規制の内容が社会全体の利益よりも規制対象となる企業の側の利益を優先するような方向に歪められたり、規制の適用にあたって手心が加えられたりすること

(欄外訳注2) FSAは2013年4月に解体され、その権限は金融行為監督機構(FCA)とイングランド銀行内に設置された金融安定政策委員会(FPC)およびプルーデンス規制機構(PRA)の3つの機関に委譲されている。詳しくは例えば次の論文を参照のこと。 ●小林襄治, “英国の新金融監督体制とマクロプルーデンス政策手段(pdf)”(証券経済研究, 第82号(2013 . 6))

2014年10月7日火曜日

Jordi Galí 「タブーへの挑戦 ~財政ファイナンスの効果を探る~」

Jordi Galí, “Thinking the unthinkable: The effects of a money-financed fiscal stimulus”(VOX, October 3, 2014)

今般の経済危機の過程では各国の中央銀行によって数多くの非伝統的な金融政策が採用されることになったが、各国は未だ景気低迷から抜け出せずにいる。本論説では、政府支出の一時的な拡大の財源を貨幣の発行で賄う政策(「財政ファイナンス」)の効果について論じる。現実に近いモデルの枠内で財政ファイナンスの効果を評価すると、財政ファイナンスは生産と雇用を大きく刺激し、インフレを若干上昇させるとの予測結果が得られることになる。

「財政ファイナンスは経済論議の中でタブーの一つと見なされるまでになっている。有害な政策と断じられているばかりではない。提案することはおろか、考えてすらいけないものと見なされているのだ」-アデール・ターナー卿(2013)


今般の経済・金融危機は伝統的なマクロ安定化政策(あるいは反循環的な政策)が抱える限界を知らしめることになった。経済活動の落ち込みを受けて各国の金融当局と財政当局はそれぞれ金利の急速な引き下げと構造的財政赤字の大幅な拡大に乗り出したが、景気の回復を待たずして打つ手が無くなる事態に追い込まれることになった。経済危機を迎えてから比較的早い段階で政策金利はゼロ下限制約に達することになり、(大幅な構造的財政赤字に乗り出した結果として)政府債務残高の対GDP比がかなり高い水準にまで上昇を続けた関係もあって各国の政府は財政再建を強いられることになった――多くの国ではまだその途上にある――のである(財政再建は景気回復を遅らせ、経済にさらなる痛みを加える格好となった可能性がある)。それに加えて、主要な中央銀行は非伝統な金融政策にも踏み出すことになったわけだが、そのような一連の政策は金融システムに安定を取り戻し、銀行部門の収益の改善を後押しする上ではそれなりの役割を果たした可能性はあるものの、特に今回の金融危機で最も大きな痛手を受けたいくつかの国においては総需要を十分に刺激するには至らず、生産と雇用をぞれぞれ潜在的な水準(潜在GDPや自然失業率)にまで引き戻すことはできなかったのである。

名目金利の引き下げも国債の発行も伴わずして経済を刺激し得るような政策について真剣に検討すべき時が来ている。というのも、これ以上名目金利を引き下げることは不可能であり、(政府債務残高の対GDP比が歴史上稀に見るほど高い水準に達しているばかりか、なおも上昇する勢いにある事実を踏まえると)政府債務残高をこれ以上増やすことは望ましくないからである。また、政府支出の拡大にあわせて税金を引き上げる(政府支出の財源を捻出するために増税する)というのも魅力ある選択肢とは言えない。多くの国では税率は既に高い水準にあるだけでなく、税金の引き上げは自滅的な結果をもたらす(訳注;税金の引き上げが政府支出の効果を打ち消す)可能性があるからだ。さらには、労働コストの削減や構造改革に力点を置いた提案に対してはここにきて疑問視する声が上がっている。労働コストの削減や構造改革が生産の拡大に結び付くかどうかはそれと同時に金融緩和が伴うかどうかにかかっているとの反論が寄せられているのだ(原注;例えば次の論文を参照のこと。Eggertsson et al.(2013), Galí (2013), Galí and Monacelli(2014))――そして金融緩和の余地はもう無いときているのである――。


財政ファイナンス(Money-financed fiscal stimulus)

つい最近の論文で私は経済を刺激し得るような政策の候補の一つに検討を加えている(Galí 2014)。その候補というのは、政府支出を一時的に拡大するための財源を貨幣の発行で賄うというもの(以下、「財政ファイナンス」)である。冒頭で引用したターナー卿の言葉にあるように、財政ファイナンスは政策当局者の世界では「口にするのも憚られる」一種の「タブー」と見なされている。しかしながら、研究者はそのようなタブーに縛られるべきではないだろう。社会的に広く共有されている目標(例. 完全雇用と物価安定)の達成を促す可能性があればいかなる政策であれその帰結を探ってみる必要があり、その過程で明らかになった発見は包み隠さず(必要な注意書きも忘れず添えた上で)公にしなければならない。それが我々研究者の責任なのだ。

私の研究を通じて得られた中心的なメッセージは次の通りである。

  • 財政ファイナンスが生産やインフレに及ぼす影響はモデルの種類(どのようなモデルを選ぶか)に大きく依存する

「理想的な」古典派モデル――あらゆる市場で完全競争が行われており、名目賃金を含むあらゆる名目価格が完全に伸縮的であるような貨幣経済のモデル――の枠内では財政ファイナンスが生産や雇用を刺激する効果はごく限られたものであり、一方で(財政ファイナンスの結果として)インフレは即座に大幅な上昇を見せることになる。また、民間の消費は減少することになる。望ましい効果もあるにはある。財政ファイナンスは即座に大幅なインフレをもたらすことになるが、その結果として(債務の実質的な価値が低下することで)政府債務残高の対GDP比が縮小するのである。 財政ファイナンスが引き起こす結果をすべて考慮すると、 「理想的な」古典派モデルの枠内では財政ファイナンスは到底お勧めできない政策ということになるだろう(原注;「理想的な」古典派モデルでは、財政ファイナンスは家計の効用を確実に低下させることになる)。個人的な推測だが、財政ファイナンスをタブー視する態度の背後にはこのような「古典派」的な発想が控えているのではないだろうか。

しかしながら、以上の議論は必ずしも正しいものとは言い切れないかもしれない。論文の中でも詳しく論じていることだが、「理想的な」古典派モデルから離れてもう少し現実に近いモデル――市場では不完全競争が行われており、名目賃金や名目価格が粘着的であるような貨幣経済のモデル――の枠内で財政ファイナンスの効果を評価すると、その結果は「理想的な」古典派モデルの枠内で得られる結果とは大きく違ってくるのである。

  • (現実に近いモデルの枠内では)財政ファイナンスは複数年にわたって実体経済活動を大きく上向かせることになる。それに伴ってインフレも上昇することになるが、比較的穏やかな水準にとどまることなる。

実体経済活動が大きく刺激される理由は予想インフレ率の上昇によって実質金利がしばらくの期間にわたって低く抑えられ、その結果として民間消費と投資が刺激されるためである。

  • 政府債務残高の対GDP比は時とともに縮小していく。その主たる理由は実質金利がしばらくの期間にわたって低く抑えられるためである。
  • 当初の生産量が効率的な水準を十分大きく下回っている場合は、財政ファイナンスを通じて実施される政府支出がまったく無駄な対象に費やされたとしても経済厚生は改善されることになる。

政府支出の対象が生産性の向上につながるような公共投資に向けられる場合には財政ファイナンスが経済厚生を改善する効果はもっと大きくなることだろう。

現実に近いモデルから得られる以上のような予測結果は量的緩和をはじめとした非伝統的な金融政策のこれまでの経験とは大きな対照をなしている。非伝統的な金融政策は総需要に直接的に影響を及ぼすものではないが、そのためにこれまでのところ多くの国々――特にユーロ圏経済――を低迷から救い出すことができずにいるのだ(訳注;一方で、財政ファイナンスは総需要に直接的に影響を及ぼすことになる。というのも、政府支出の拡大が伴うためである)。財政ファイナンスはユーロ圏のような通貨同盟向けの政策としての利点も備えている。財政ファイナンスでは政府支出の拡大が伴うわけだが、高失業や低インフレ(あるいは長引くデフレのリスク)に悩まされている地域を選定した上でその地に政府支出を集中させるという方法も採り得るのである。

特にユーロ圏経済に言えることだが、古色蒼然とした偏見から脱却し、これまでに試されてきたどの方法よりもずっと確実に総需要を刺激し得る方法を試すべき緊急の必要性に迫られている事実に向き合う時が来ているのかもしれない。財政ファイナンスを選択肢の一つとして真剣に考慮すべき時が来ているのだ。


<参考文献>

●Eggertsson, G, A Ferrero, and A Raffo (2013), “Can Structural Reforms Help Europe?(pdf)”, Brown University, mimeo
●Galí, J (2013), “Notes for a New Guide to Keynes (I): Wages, Aggregate Demand and Employment”, Journal of the European Economic Association, 11(5), 973-1003.
●Galí, J and T Monacelli (2014), “Understanding the Gains from Wage Flexibility: The Exchange Rate Connection”, CREI working paper.
●Galí, J (2014), “The Effects of a Money-Financed Fiscal Stimulus”, CEPR Discussion Paper 10165, September.

2014年10月4日土曜日

Lucrezia Reichlin, Adair Turner and Michael Woodford 「ヘリコプターマネーの是非を問う」

Lucrezia Reichlin, Adair Turner and Michael Woodford, “Helicopter money as a policy option”(VOX, May 20, 2013)

ヨーロッパ全体が長引く景気低迷に追いやられる中、非伝統的な政策オプションを探し求める動きがますます盛んになっている。そのような中で依然として押し入れの奥深くに閉じ込められたままになっている政策が存在する。その名は「ヘリコプターマネー」――中央銀行が財政赤字を直接賄ういわゆる「財政ファイナンス」――である。本論説は世界を代表する3名の貨幣経済学者が「ヘリコプターマネー」をテーマに討論を行った際の模様を再現したものである。

イントロダクション(by ルクレツィア・ライシュリン)

金融危機が勃発して以降、各国の中央銀行は金融市場の動揺が続く中で総需要(名目支出)の安定化を目指して数々の非伝統的な金融政策に乗り出してきた。非伝統的な金融政策と一括りにはされても個々の政策ごとに直接的な目標(マーケットメイキング、長期金利をはじめとした資産価格のコントロール、補助金の提供を通じた信用支援等々)は異なっている。こういった一連の非伝統的な金融政策はリーマン・ブラザーズの破綻に続いて起こった銀行危機を和らげ、金融市場に安定を取り戻す上では役割を果たしたと評価されている。しかしながら、実体経済に対する効果については依然として不確実な面が多い(原注;非伝統的な金融政策がマクロ経済(特にアメリカ経済)に及ぼした効果に関する実証的な分析としては例えばKhrishnamurthy&Vissing-Jorgensen(2011)を参照されたい。また、欧州中央銀行(ECB)による非伝統的な金融政策についてはLenza&Pill&Reichlin(2010)を参照のこと)。

非伝統的な金融政策が実体経済にどのような効果を及ぼすのかはっきりしたことがわからない状況が続いている中、日本銀行が突如として大胆な行動プランを明らかにした。今後2年間でマネタリーベースならびに国債の保有額を2倍に拡大すると発表したのである。

非伝統的な金融政策を巡っては大きく対立する2つの立場がある。
  • 量的緩和は将来におけるバブルの温床となるだけではなく、量的緩和から手を引く(撤退する)過程では金融システムの安定性が損なわれる恐れがある(詳しくはStein(2013)を参照のこと)
  • 実体経済を上向かせるためには量的緩和よりもさらに積極的な行動が必要だ
つい最近になってアデール・ターナー卿が「量的緩和よりもさらに積極的な行動」の一つを提言している(Turner 2013)。 「ヘリコプターマネー」である(彼は「永続的な貨幣供給」とも呼んでいる)。このアイデアは元々ミルトン・フリードマン(Friedman 1948)によって論じられ、今から10年前の2003年にベン・バーナンキ(Bernanke 2003)によって再び取り上げられたものである。バーナンキはゼロ下限制約に直面している日本経済を念頭に置いていたが、彼は「ヘリコプターマネー」の具体的な手法として一般家庭への給付金の支給あるいは企業に対する減税と歩調を合わせるようにして中央銀行が国債の買い入れを進めること――貨幣の発行を伴う減税――を説いている 。

「ヘリコプターマネー」はそれなりに長い歴史を持つアイデアではあるが、今日ではタブーの一つとなっている。今般の経済危機に対処するために各国の中央銀行は数々の非伝統的な金融政策に乗り出すことになったわけだが、その結果として各国の中央銀行のバランスシートはいずれも大きく拡大することになった。しかしながら、マネタリーベースの拡大を明確な目標に掲げるだけでなく、マネタリーベースの「永続的な」拡大にコミットした例は――先の日本銀行を含めても――ここ最近ではない。しかしながら、経済学界の中からは「ヘリコプターマネー」を支持する声がちらほらと聞こえてきている。

2012年に開催されたジャクソンホール・シンポジウムでマイケル・ウッドフォードが「フレキシブル・インフレ目標」の変種を提案している。中央銀行が名目変数(例えば、名目GDPの将来経路)に関して目標を設定し、その目標の達成に向けてコミットするというもの(名目GDP水準目標)だが、その枠組みの中で採り得る手段についてもいくつか論じられている。その中の一つが給付金の支給と組み合わされたマネタリーベースの「永続的な」拡大である(Woodford 2012)。

世界各国が長引く景気低迷に苦しめられている現在、押し入れの奥深くに閉じ込められたままになっている選択肢も含めてありとあらゆる可能性を俎上に乗せてみるには絶好の機会だろう。


以下は「ヘリコプターマネー」をテーマとした3名の経済学者の討論の模様を再現したものである。ライシュリンが質問し、それにターナーとウッドフォードが回答する質疑応答の形式をとっている。

<質問その1> ターナー卿に質問です。金融政策のオプション(手段)の一つとして「ヘリコプターマネー」が特に今現在の状況においてその適切さを増しているとお考えになる理由をご説明願えるでしょうか?

アデール・ターナー(以下、「ターナー卿」): 「ヘリコプターマネー」とは何か?という点から軽く触れさせていただきますと、私個人としては中央銀行が(新発国債を直接引き受けることで)財政赤字を直接賄ういわゆる「財政ファイナンス」の意味で使っています。「ヘリコプターマネー」だけが総需要(名目支出)を確実に刺激できる唯一の手段だと言えるような状況があるかもしれません。それに加えて、「ヘリコプターマネー」は現在各国の中央銀行が広く採用している非伝統的な金融政策と比べると将来的に金融システムの安定性を脅かす可能性も低いのではないかと考えます。

まず真っ先に問うておくべき質問があります。果たして今現在は総需要を刺激すべき状況にあるのかどうか?ということです。次の2つの条件のいずれかが満たされるようであればその答えは当然「イエス」ということになるでしょう。まず第1の条件は、総需要の増加が概して実質的な産出量(実質GDP)の増加というかたちをとって表れる可能性が高いこと。そして第2の条件は、(総需要が増加する結果として生じる)インフレ率の上昇それ自体が望ましい効果を持つと考えられることです。現在のところ先進国の中には以上の2つの条件が当てはまる国がいくつかあると考えられます。そのような国では金融危機の余波を受けて民間部門でデレバレッジ(債務の圧縮)が進められている最中であり、そのために景気に大きな下押し圧力がかかっています。その結果、名目GDP成長率も極めて低い状態にあります。一方で先の2つの条件が満たされないようであれば、「ヘリコプターマネー」は言うまでもなく名目GDPを刺激するような政策はいかなるものであれ試すべきではないということになるでしょう。

ここでは先の2つの条件が満たされており、それゆえ名目GDP成長率を高めることが望ましいとの前提で話を進めることにしましょう。しかし、ここに厄介な問題が控えています。「ヘリコプターマネー」以外の政策にはあまり効果が期待できなかったり好ましからぬ副作用が伴う可能性があるのです。金融政策は――伝統的な金融政策も非伝統的な金融政策もいずれも――「ひもを押している」かのような状況に置かれている可能性があります。民間部門がデレバレッジ(債務の圧縮)に奔走する「バランスシート不況」が続く中で政策金利はゼロ%にまで引き下げられることになりましたが、(銀行貸出をはじめとした)信用の供給や需要を十分に刺激することはできませんでした。量的緩和を通じて長期金利の低下を促しても同様に効果はあまり期待できないかもしれません。それに加えて、金利を長い期間にわたって極めて低い水準に抑えつけておくと投資家たちの利回り追求行動(search for yield)を後押しする格好となり――その過程では新たな金融商品の開発やキャリートレードが盛んに行われることでしょう――、その結果として将来的に金融システムの安定性を脅かす火種をまいてしまうことにもなりかねません。

金融政策に比べると通常の(国債を市中で発行して得られた資金を財源とする)財政政策(財政刺激策)の方がまだ効果が高いと言えるかもしれません。中央銀行がフォワードガイダンスに乗り出している(しばらくの期間にわたって金利を低い水準に据え置くことを約束している)状況では財政乗数は大きな値をとる可能性があります。しかしながら、政府債務残高が既に高い水準にあってなおも累増する勢いを見せているような状況では、政府債務の持続可能性に強い疑いが持たれ出し、それに伴って「リカードの中立命題」がその効果を露わにし始める可能性があります。減税が実施されても「将来的に増税が行われてその埋め合わせがなされるに違いない」と国民の多くが予想する(訳注;そして将来の増税に備えて貯蓄を増やす(消費を減らす))ようになる可能性があるのです。

こういった事情を踏まえると、「ヘリコプターマネー」も選択肢の一つとして考慮すべきだというのが私の考えです。前FRB議長であるベン・バーナンキも2003年に日本に対して「ヘリコプターマネー」の採用を勧めています。仮に日本が2003年の時点で「ヘリコプターマネー」の採用に乗り出していたとしたら、実質GDPや物価は今よりも高い水準にあり、政府債務残高の対GDP比も今よりも低い水準に抑えられていたことでしょう。


<質問その2> 次にウッドフォード教授に質問です。ターナー卿が提案している「ヘリコプターマネー」は経済にどのような効果を及ぼすと思われますか? 通常の量的緩和と比較して効果の面で違いはあるでしょうか? もう一つ質問です。ターナー卿が提案している「ヘリコプターマネー」とあなた自身が提案されている名目GDP水準目標との間にはどのような関係があると思われますか?

マイケル・ウッドフォード(以下、「ウッドフォード教授」): 理論的に考えますと、「ヘリプターマネー」も量的緩和もまったく同じ均衡に至る可能性があります。量的緩和では中央銀行が市中にある国債(既発国債)を購入することでマネタリーベースが増えることになるわけですが、ここでは一つの想定として一旦拡大されたマネタリーベースがその後もずっと(永続的に)そのままの状態に置かれることが公に宣言されるとしましょう。一方で、「ヘリコプターマネー」提案では国民に対する給付金の財源としてマネタリーベースが活用されることになるわけですが、こちらでもやはり一旦拡大されたマネタリーベースがその後もずっと(永続的に)そのままの状態に置かれることが公に宣言されると想定することにしましょう。さらには、どちらのケースでも将来にわたる政府支出の経路に違いはなく、中央銀行が手にするシニョリッジ(通貨発行益)は国庫に納付され(政府の税収となり)、市中にある国債の償還と政府支出を賄う上で必要なだけの課税が行われるとしましょう。こういった一連の仮定に加えて完全予見(perfect foresight)の想定を置くと、どちらのケースでもマネタリーベースの拡大規模が同じである限りは理論的にはまったく同じ均衡に至ることになります。また、予算に及ぼす効果の面でも両者の間で違いはありません。量的緩和の下では中央銀行は市中から国債を買い取ることになりますが、中央銀行が買い取った国債に対して支払われる金利はやがては国庫に納付される(財務省に払い戻される)ことになります。中央銀行と政府の予算に及ぼす効果ということに関して言うと中央銀行が国債を買い取ってはいない場合と何の変わりもなく、「ヘリコプターマネー」ではこの点がもっとはっきりしています。

しかしながら、実際問題としては二つの政策は異なる効果を生む可能性があります。政策の将来の成り行きについて二つの政策の間で国民が異なる認識を持つかもしれないからです。量的緩和のケースでは国民は一旦拡大されたマネタリーベースがその後もずっと(永続的に)そのままの状態に置かれるとは受け取らないかもしれません。2001年~2006年に日本で実施された量的緩和がまさにそうでしたし(訳注;マネタリーベースの拡大が永続的なものではなかった)、アメリカやイギリスの政策当局者は中央銀行のバランスシートを今後もずっと膨らんだままにしておくつもりはないと語っています。マネタリーベースの拡大が一時的なものに過ぎない(永続的なものではない)と国民に受け取られる場合には総需要が刺激されることはないと考えられます。一方で、「ヘリコプターマネー」のケースでは一旦拡大されたマネタリーベースをその後もずっとそのままにしておくとの宣言が信用される可能性は高いと言えるかもしれません。それに加えて、「ヘリコプターマネー」のケースでは国民の手に直接現金(給付金)が渡ることになります。量的緩和の場合だと支出を増やす余裕が生まれた事実に気付くために国民は将来の状況(異時点間の予算制約)にどのような変化が生じたかを事細かく検討する必要がありますが、「ヘリコプターマネー」の場合はそのような細かい検討をせずとも現金(給付金)を直接手にすることで国民は支出を増やす余裕が生まれた事実にすぐに気付く可能性があります。

というわけで、量的緩和と比べるとターナー卿の提案(「ヘリコプターマネー」)の方が効果がありそうだと個人的には判断するわけですが、「ヘリコプターマネー」と同様の効果を持つ政策は他にもあるのではないかと思います。それも「ヘリコプターマネー」と同じく将来を見通す能力の面で国民に多くを要求せずとも効果が期待できるものです。それは何かと言いますと、給付金の財源は通常のように国債を市中で発行して賄うわけですが、それと足並みを揃えるようにして中央銀行が名目GDP水準目標に乗り出せばよいのです。マネタリーベースの拡大規模(ないしはその将来経路)が「ヘリコプターマネー」のケースと同じであれば(そうなるように名目GDPの目標水準(目標経路)を定めれば)、完全予見の想定の下では両者はまったく同じ均衡に落ち着くことになるでしょう。また、「ヘリコプターマネー」のケースと同様に国民の手に直接現金(給付金)が渡ることになります。そのため将来の状況(異時点間の予算制約)にどのような変化が生じたかを細かく検討しなくとも国民は支出を増やす余裕が生まれた事実に容易に気付くかもしれません。つまりは、将来を見通す能力の面で国民に多くを要求せずとも景気を刺激する効果が期待されるわけです。流動性制約下にある国民がいる場合も同様に景気の刺激につながるでしょう。「ヘリコプターマネー」との違いと言えば、国民に給付金が支払われるプロセスに中央銀行が直接関与することはないというところです。それゆえ私のこの提案では金融政策と財政政策はこれまで通り分離されたままになります。


<質問その3> ターナー卿に質問です。ウッドフォード教授のお話によりますと、ヘリコプターマネーよりも望ましくて適当な政策があるということです。政府が国債を発行して給付金の財源を市中で調達すると同時に中央銀行が名目GDP水準目標に乗り出せばよいとのことですが、ウッドフォード教授のご意見に同意なさいますか?

ターナー卿: ウッドフォード教授がいみじくも指摘されたように、完全予見の想定が妥当するようであれば、ウッドフォード教授が提案する政策も私自身が提案する「ヘリコプターマネー」もまったく同じ均衡に辿り着くことでしょう。しかしながら、完全予見は常に成り立つわけではないかもしれません。「ヘリコプターマネー」では給付金の財源は中央銀行が発行する貨幣によって直接賄われており、その貨幣が国民の手元に直接渡ることになるわけですが、完全予見が成り立つようにするためにはそのような透明性の高い仕組みが必要となるかもしれません。

ウッドフォード教授の提案のポイントは次の2点にあると言えるでしょう。まず第1点目は、政府が財政赤字の拡大を許容して(減税ないしは政府支出の拡大を通じて)国民の手元に入るお金の量を増やす。そして第2点目は、中央銀行が名目GDP水準目標に乗り出すことを宣言し、名目GDPを目標水準(目標経路)に留めておく上で必要なだけの買いオペを行う(国債を市中から購入する)。おそらくは目標を達成する上ではマネタリーベースの永続的な拡大を伴うことでしょう。

名目GDP水準目標の達成に向けて取り組む過程で拡大されたマネタリーベースはその後もずっと(永続的に)そのままの状態に置かれる(マネタリーベースの拡大は永続的なものである)と国民から受け取られる場合、政府が財政赤字の拡大を許容したからといって将来の税負担が増えるわけではないと正しく認識される可能性があり、それゆえ国民も将来の税負担について心配することはなくなるかもしれません。言い換えると、財政刺激策の財源は結局のところは中央銀行による貨幣の永続的な拡大によって賄われているのだということが国民によって正しく理解される可能性もなくはありません。

つまりは、ウッドフォード教授の提案は実質的には財政ファイナンスだと言えるわけですが、「ヘリコプターマネー」ほどその点が明白ではないわけです(訳注;財政赤字の財源が貨幣の発行によって賄われている点が「ヘリコプターマネー」ほど明白ではない)。そしてそのために完全予見が成り立たない恐れがあり、財政赤字が拡大している(政府が国債の発行を増やしている)様子を見て国民が「将来の税負担が増えているのではないか?」と勘違いしてしまう可能性があるのです。そのような勘違いが起こる場合には名目GDP水準目標を達成するためにかなり大規模な買いオペを行う必要があるかもしれません。先にも触れましたが、かなり大規模な買いオペが必要となる場合には金融システムの安定性が脅かされる恐れがあります。

「ヘリコプターマネー」のような“明白なかたちの”財政ファイナンスにも問題はあるかもしれません。とりわけ個人的に重要だと思う問題は、「中央銀行の独立性」と抵触しないようにすることは可能なのかどうか? 財政ファイナンスの行き過ぎを阻止することは可能なのかどうか? というものです。そしてそれは可能だと考えます。


<質問その4> 「ヘリコプターマネー」は財政政策の一種だと考えられますが、そうだとすると一つの問題が持ち上がってくることになります。どの機関がその政策を受け持つべきか? という問題です。中央銀行でしょうか? 財務省でしょうか? それとも両者が共同で担当すべきでしょうか? この問題は「中央銀行の独立性」という原則を脅かす可能性があります。そこまでいかなくとも、政府(財務省)と中央銀行との関係を律しているルールの再考を迫る可能性があるとは言えるでしょう。ウッドフォード教授に質問です。金融政策と財政政策との垣根が曖昧になるとそれに伴ってモラル・ハザードの問題が引き起こされる可能性があるわけですが、そのような問題に対処するにはどうすればよいとお考えでしょうか?

ウッドフォード教授: 「ヘリコプターマネー」に関してはそのような問題が伴うかもしれませんが、私がつい先ほど語った提案はその問題を免れていると思います。私の提案の方が好ましいと考える理由もこの点にあります。私の提案では金融政策と財政政策が共同歩調をとる必要がありますが、両者がこれまで通り別々に分離した状態のままであってもそれは可能です。国民に給付金を支払い、国債を市中で発行してそのための資金を調達し、そして満期を迎えた国債を償還するために将来的に課税を行う。以上の任務は財政当局が単独で行うことが可能です。一方で、名目GDP水準目標を達成するために必要なだけの公開市場オペレーションを行い(あるいは名目GDPが目標を下回る場合は名目金利をゼロ%に据え置き)、資産の獲得(購入)と引き換えに負債(マネタリーベース)を発行し、シニョリッジをはじめとした収益を国庫に納付する。以上の任務は中央銀行が単独で行うことが可能です。望ましい均衡を実現するために両者が緊密に協力する必要があるからといってそこからただちに「金融政策が財政当局に乗っ取られてしまう」ということになるわけではありませんし、「モラル・ハザードが誘発されるのではないか?」と過敏になる必要もないと思われるのです。それにそもそもの話として、財政当局がどのように行動しようとも中央銀行が名目GDP水準目標の達成に向けて全身全霊を注げばそれで構わないのです。特にゼロ下限制約に直面している場合には財政当局の協力が得られれば成功の可能性も高まるとは思いますが――というのは、財政刺激策は予想への働きかけに頼らずともその効果を発揮するからです――、財政当局の協力が得られようと得られまいと中央銀行にとっては名目GDP水準目標の達成に向けて邁進することが賢明な策であることには変わりないでしょう。


<質問その5> ターナー卿に質問です。あなたが提案されている「ヘリコプターマネー」を実行に移した場合、それに伴って「中央銀行の独立性」が脅かされる恐れがあると懸念する声がありますが、そのような意見に対してどのようにお答えなさるでしょうか?

ターナー卿: 財政ファイナンスを選択肢の一つとして認めることはタブーを犯すことを意味しており、それには大きなリスクが伴うという意見については「まったくその通りだ」と私も同意します。しかしながら、そのようなリスクを回避する術はいくつかあるとも考えます。また、ウッドフォード教授のご意見に異を唱える格好になりますが、ウッドフォード教授が提案されている政策もやはり財政規律を損なう危険性を抱えているのではないかとも考えます。

現在最も求められている政策を実現するためには金融政策と財政政策が緊密に協力する必要があるという点についてはウッドフォード教授と私とで意見の違いはありません。ウッドフォード教授の提案に従いますと、財政当局はクラウディング・アウトの可能性を気にかけることなく積極果敢な財政政策に打って出ることが可能です――その結果、景気も刺激されることになるでしょう――。というのも、中央銀行が名目GDP水準目標の達成に向けて大量の国債を購入し、その後もずっと購入した国債を保有し続ける(一旦購入した国債を決して売らない)可能性が高いことがわかっているからです。しかしながら、まさにそれだからこそ財政規律が損なわれる危険性があるのです。中央銀行が名目GDP水準目標を達成する上で必要となる規模を上回るほどの過大な財政赤字が生み出される可能性も捨てきれないのです。

私が提案する「ヘリコプターマネー」も財政規律を損なう危険性はありますが、そのような危険性を回避する手立ての一つとして独立した中央銀行が前もって財政ファイナンスの規模(国債の直接引き受けを通じて賄う財政赤字の規模)を決めるようにすればいいでしょう。まずはじめに中央銀行が政策目標(インフレ目標あるいは名目GDP目標)を達成する上でどのくらいの規模であれば国債を直接引き受けても問題ないかを決める。そしてその後に財政当局が具体的な使途(減税に回すかそれとも政府支出に回すか)を決めるわけです。中央銀行が財政ファイナンスの規模を決める際はあくまで政府から独立した立場で検討を加え、通常の金融政策を決める際と同じ政策決定プロセス(政策委員会)を通じて判断が下されることになるでしょう。

編集後記: 本論説は2013年4月に経済政策研究センター(CEPR)とロンドン・ビジネス・スクールが共同で開催した討論会の模様を再現したものである。この討論会ではルクレツィア・ライシュリンが司会を務め、アデール・ターナーとマイケル・ウッドフォードが「ヘリコプターマネー」をテーマに討論を行った。


<参考文献>

●Bernanke, B (2003), “Some Thoughts on Monetary Policy in Japan”(邦訳 『リフレが正しい。~FRB議長ベン・バーナンキの言葉~』の第7章に収録), speech, Tokyo, May.
●Friedman, Milton (1948), “A Monetary and Fiscal Framework for Economic Stability”, The American Economic Review 38, June.
●Giannone, D, Lenza, M, Pill, H and Reichlin, L (2012), “The ECB and the interbank market”, Economic Journal.
●Khrishnamurthy A and Vissing-Jorgensen, A (2011), “The Effects of Quantitative Easing on Interest Rates(pdf)”, Brooking Papers of Economic Activity, Fall.
●Lenza, M, Pill, H and Reichlin L (2010), “Monetary policy in exceptional times”, Economic Policy 62, 295-339.
●Stein, AJ (2013), “Overheating in Credit Markets: Origins, Measurement, and Policy Responses”, speech at the research symposium sponsored by the Federal Reserve Bank of St Louis, St Louis, Missouri, 7 February.
●Turner, A (2013), “Debt, Money and Mephistopheles”, speech at Cass Business School, 6 February.
●Woodford, M (2012), “Methods of Policy Accommodation at the Interest-Rate Lower Bound(pdf)”, speech at Jackson Hole Symposium, 20 August.

Ricardo Caballero 「ヘリコプタードロップ ~Fedから財務省への贈り物~」

Ricardo Caballero, “A helicopter drop for the Treasury”(VOX, August 30, 2010)

目下のところ(2010年現在)アメリカ経済は「流動性の罠」に陥りかけている可能性がある。中央銀行が財政刺激策(例えば、売上税の一時的な大幅減税)に必要な資金を直接賄う(新発国債を直接引き受ける)ようにすれば、「流動性の罠」の下でも金融政策は大きな効果を発揮する可能性がある。また、経済が「流動性の罠」から抜けた後の問題に対処するために、完全雇用が達成された暁には「ヘリコプタードロップ」を通じて財務省の手に渡った資金が再びFedのもとに返還されるようにあらかじめ取り決めておく――「ヘリコプタードロップ」に返還条件を設けておく――必要があるかもしれない。

景気の低迷が長引いており、この閉塞状況から抜け出せそうな気配はなかなか見られない。金融危機が経済システム全体に対して及ぼした大きなショックの影響がまだ完全には消え去っていないことを考えるとそれもやむを得ない面があるが、景気のさらなる落ち込みを防ぐ上でマクロ経済政策が果たすべき重要な役割はまだ残っている。とはいえ、Fedは資源には事欠いてはいないものの有効な手段を欠いており、その一方で財務省は有効な手段は手にしているものの資源に事欠いているというのが現状である。このような不幸な状況から抜け出すためにはFedから財務省に資源を移転すればよいとの結論を導き出すのはごく自然な発想だと言えるだろう。

しかしながら、事はそう簡単ではない。というのも、金融政策を改善するための努力の多くが強欲な政府から「中央銀行の独立性」を勝ち取ることに捧げられてきたという過去数十年にわたる長い歴史があるからである。しかしながら、いかなるシステムもそれが日々巻き起こる政策問題を前にして錨の役割を果たし得る(訳注;そのシステムの下で暮らす人々の生活に安定をもたらす)ためには免責条項を用意しておく必要がある。そして(免責条項が適用される)例外的な状況においては(おそらくは最初にして)最終的な発言権はFed議長に委ねられるべきであろう。

「量的緩和がまさしくそのような政策なのではないか?」との意見もあるかもしれないが、「ノー」である。国債(既発国債)の購入を通じた量的緩和は政府の資金調達コスト(国債の利回り)や民間部門が直面する資本コスト(長期資金の調達コスト)を若干ながらも低く抑える役割を果たしていることは確かである。しかしながら、次のような事情も考慮する必要がある。国債の発行は今もなお急速なペースで続いているだけでなく、そもそも財を購入するための十分な(消費)需要がなければ資本コストが少しばかり低く抑えられたところで大して助けとはならないのである。


公的債務を増やさずに減税を実現する方法

公的債務を増やすことなしに拡張的な財政政策(例えば、売上税の一時的な大幅減税)を可能とするような術こそが必要とされているのだ。そしてそのような術というのがFedから財務省に向けた「ヘリコプタードロップ」――Fedが財務省に捧げる(お金という名の)贈り物――なのである。

そんなのは会計上のごまかしに過ぎないとの批判の声があるかもしれない。政府と中央銀行をあわせた統合政府のレベルで考えると、統合政府のバランスシート上では依然として債務が計上されることに変わりはないではないか、というわけである。しかしながら、そのような批判は重要なポイントを見逃している。経済が「流動性の罠」に陥っている状況では貨幣需要が無限大の大きさになっているのだ。そういった状況で統合政府が抱える債務の構成(内訳)を「貨幣」(ないしは準備預金)の比重が増す方向へと変えれば、政府は一種の「フリーランチ」(ただ飯)を手に入れることができるのだ。

「「流動性の罠」に陥っている間であればそのようなロジックも妥当するかもしれないが、「流動性の罠」から抜けた後はどうなるのだ? 我々の手に負えない状況がやってくるのではないか?」との批判もあり得るだろう。経済が危機を乗り越えた暁にはFedが速やかにバランスシートの縮小に乗り出しさえすれば――Fedはこれまでにもそのような出口戦略の策定に取り組み続けているわけだが――そのような懸念にも対処することができるだろうが、それに加えて「ヘリコプタードロップ」に返還条件を設けておくという手もあるだろう。例えば、完全雇用が達成された暁には「ヘリコプタードロップ」を通じて財務省の手に渡った資金が再びFedのもとに返還されるようにあらかじめ取り決めておけばいいだろう。

景気低迷に対処する過程で(拡張的な財政政策を実行する結果として)巨額の財政赤字が発生する場合、通常であればそれに伴って市中で発行される国債の残高も増えることになり、公的債務の持続可能性が危うくなる恐れがある。しかしながら、返還条件付きの「ヘリコプタードロップ」を通じて拡張的な財政政策が実施される場合には景気低迷に対処する過程で市中における国債の残高が増えることもなく、それゆえ公的債務の持続可能性を巡る悪夢のようなシナリオを回避することが可能となる。また、返還条件付きの「ヘリコプタードロップ」を通じてFedが(完全雇用が達成されるまで)一時的に国債を直接引き受けることになれば、金融政策は財政政策に様変わりすることを通じて「流動性の罠」の下であっても大きな効果を発揮する可能性があるのだ。

2014年9月30日火曜日

Stephen Grenville 「量的緩和、貨幣の増刷、ヘリコプターマネー、そして財政ファイナンス」

Stephen Grenville, “Helicopter money”(VOX, February 24, 2013)

財政ファイナンスとは具体的にはどのようなものなのだろうか? 本論説では、しばしば同一視されがちな「貨幣の増刷」や量的緩和、財政ファイナンスの間の違いについて説明する。それに加えて、ターナー卿による「ヘリコプタードロップ」提案に伴う課題――民間銀行部門のバランスシートに生じる歪みならびに「中央銀行の独立性」を脅かす可能性――についても触れる。

金融政策(特に量的緩和)を巡る論議の中に混乱の種を持ち込んでいる2つの用語がある。それは「貨幣の増刷」と「ヘリコプターマネー」である(Sinn 2011)。


量的緩和≠貨幣の増刷

量的緩和を「貨幣の増刷」(輪転機を回してお金を刷ること)と同一視するのは不適切である。国民が保有する現金の量は現金需要(現金に対する需要)によって決定されるのであって、例えば(イギリスの中央銀行にあたる)イングランド銀行が量的緩和を実施して民間の銀行から債券を購入する際にはその民間銀行がイングランド銀行に開設している預金口座に債券の購入代金が振り込まれるのである。つまりは、量的緩和の過程で増えるのはあくまでも準備預金の量なのであり、準備預金を構成要素とするマネタリーベースの量なのだ。現金に対する需要が増えない限りは「貨幣を増刷する(お金を刷る)」必要はないのである。

量的緩和が進められる過程で超過準備(民間の銀行が中央銀行に預けている預金のうちで法律で定められている預け入れ額を上回る部分)を抱えることになった民間の銀行は貸出を行ったり債券を購入したりして手持ちの準備預金を減らそうと試みるかもしれない。しかしながら、個々の民間銀行が新たに貸出を行おうと新たに債券を購入しようとマネタリーベースの量は変わらないのである。


量的緩和≠ヘリコプターマネー

中央銀行の総裁がへリコプターを操縦し、地上で待ち構える国民に向けて空から大量のお金をばらまく。量的緩和を実施する中央銀行の姿をそのようなイメージとだぶらせる見解は広く見受けられるが、そのような捉え方は量的緩和を「貨幣の増刷」と同一視するよりもずっと誤解を招くものだ。国民に直接現金を配布する権限を持っているのは中央銀行ではなく政府である(現実問題としては現金ではなく小切手が配布されることになるだろう。例えば2009年にオーストラリア政府は多くの納税者に対して「キャッシュ・スプラッシュ」(‘cash splash’)と呼ばれる小切手を配布した)。それゆえ、国民に直接現金を配布する政策(「ヘリコプターマネー」)は金融政策ではなく財政政策の範疇に含まれる。中央銀行は国民に直接現金を配布する権限を持ち合わせてはいないのだ(中央銀行に認められているのは資産同士を交換する(例えば準備預金と国債を交換する)ことだけである。このことは量的緩和に関しても当てはまる)。国民に直接現金を配布する場合はその他の財政政策と同様に議会での予算編成プロセスを通じて承認を受ける必要がある。ヘリコプターを操縦して空からお金をばらまくことができるのは中央銀行ではなく政府なのであり、このような行為(「ヘリコプターマネー」)は財政政策と呼ぶべきなのである。

「総需要を刺激する上で『ヘリコプターマネー』はどの程度効果があるだろうか?」という点については論者の間で意見に違いがある――どのような政策であれ大抵はその効果を巡って意見に違いが見られるものだが――。クラウディングアウトがそれほど強く働かなかったり、リカードの中立命題が当てはまらないようであれば――需給ギャップが存在しており金融政策を通じて金利が低く抑えられるようであればそうなる可能性は高い――、あるいは財政赤字を賄う上で低金利で借り入れを行う(国債を発行する)ことができるようであれば――今現在はまさにそのような状況にある――、「ヘリコプターマネー」が総需要を刺激する可能性はかなり高いと言えるだろう。突然の施しを手にした国民はそのうちの一部を貯蓄するだろうがそのほとんどを支出に回すことだろう。単なる量的緩和よりも「ヘリコプターマネー」の方が総需要を刺激する上でより確実な方法だと言えそうである。


量的緩和の一種としての財政ファイナンス

「(財政赤字を賄うために)国債を発行したら金利が上昇してしまうかもしれない」「マーケットが国債を買い取ってくれないかもしれない」といった懸念があるかもしれないが、そのような場合は中央銀行が財政赤字を直接賄うという手段があり得る。中央銀行が直接(新たに発行されたばかりの)国債を買い取り、政府が中央銀行に開設している預金口座(政府預金)にその代金を振り込むのである。このような「財政ファイナンス」は――政府が主導権を握る場合もあるかもしれないが――量的緩和の一種だと言える。

「財政ファイナンス」のコストは一体誰が負担することになるのだろうか? (中央銀行が国債を直接買い取ることで生まれた新たな資金(政府預金)を元にして)政府が国民に対して小切手(「キャッシュ・スプラッシュ」)を配布した(振り出した)場合、最終的にはその小切手は民間銀行部門に持ち込まれ、その結果(民間銀行部門が中央銀行に預け入れる)準備預金が増えることになるだろう。仮にヘリコプターから現金が直接ばらまかれたとしても、その時点で既に国民が手元に十分な(自らが望むだけの)現金を持っていたとすれば、ヘリコプターからばらまかれた現金は民間銀行に預金されることになるだろう。つまりは、最終的には民間銀行部門全体で見て債務(国民が民間銀行に預けている預金)と資産(民間銀行が中央銀行に預けている預金)がともに増えることになるのである。「財政ファイナンス」は民間銀行部門に対してさらなる準備預金の保有を強いることになるわけなのだ。

「財政ファイナンス」は公的な債務を増やすことはないかというとそうではない。「財政ファイナンス」の過程では中央銀行が民間銀行に対して負う債務(準備預金)が増えることになり、その意味でやはり公的な債務は増えることになるのである。また、準備預金に対して市場金利と同水準の金利が支払われる場合(現在大半の中央銀行はそうしている)には(財政赤字の調達に伴う)金利コストが節約されることもない。中央銀行が準備預金に対して支払う金利を市場金利以下の水準に引き下げれば金利コストは節約されることになるが、それは事実上民間銀行(が保有する準備預金)に課税しているようなものである。

「財政ファイナンス」と通常の量的緩和の間には若干の違いもある。まず第一の違いは、通常の量的緩和の場合は中央銀行独自の判断に任される一方で、「財政ファイナンス」の場合は中央銀行と政府との共同決定という性格を帯びる点である。そしてこの違いは「中央銀行の独立性」を巡って一つの課題を提起することになる。政府による乱費(予算の無駄遣い)を牽制する上では政府が財政赤字の補填を要求してきた場合に中央銀行にその要求を撥ねつけ得る(「ノー」と言える)だけの能力があるかどうかが重要な役割を果たすわけだが、「財政ファイナンス」は中央銀行のそのような能力を脅かす可能性があるのだ。そして第二の違いは政策の終了がはっきりしているかどうかという点である。通常の量的緩和に関しては将来のどの時点かで終了を迎えることははっきりしているが、「財政ファイナンス」に関してはその点がはっきりしないのである(民間銀行部門が大量の超過準備の保有を強いられる状況が長続きしないことだけは確かであるが)。

アデール・ターナー卿による(「財政ファイナンス」の一種である)「ヘリコプタードロップ」提案(Turner 2013)(訳注;ターナー卿自身は自らの提案を「ヘリコプタードロップ」と呼んでいるが、内容的にはこの論説で言うところの「ヘリコプターマネー(ヘリコプタードロップ)」ではなく「財政ファイナンス」にあたる)はインフレ警戒論者――貨幣と物価との間の関係について時代遅れの考えを引きずっている人々――や財政規律論者――需給ギャップが存在しているにもかかわらず、「財政刺激策は効果がない」とか「財政刺激策は有害だ」と唱える人々――に対する反駁という意味では成功している。しかしながら、ターナー卿による周到な「財政ファイナンス」提案の是非を論じる際にはその便益だけではなくその弊害――量的緩和ならびに「財政ファイナンス」が民間銀行部門のバランスシートに及ぼす歪み(大量の超過準備の発生)や「中央銀行の独立性」を脅かす可能性――にも同時に目を向ける必要があるのだ。


<参考文献>

●Sinn, Hans-Werner (2011), “The threat to use the printing press”, VoxEU.org, 18 November.
●Turner, Adair (2013), “Debt, Money and Mephistopheles: How do we get out of this mess?”, speech, Cass Business School.

2014年9月25日木曜日

Barry Eichengreen and Peter Temin 「『金の足かせ』と『紙の足かせ』」

Barry Eichengreen and Peter Temin, “Fetters of gold and paper”(VOX, July 30, 2010)

世界経済は、固定為替相場制度――具体的には、ドルにペッグした人民元、および、ユーロ――に端を発する緊張に包まれている最中である。かつての金本位制の経験が示しているように、国際通貨制度というのは、為替レートを通じて多くの国々が結び付けられた一つのシステムであり、どの国の政策も(為替レートを通じて結び付けられている)他の国に影響を及ぼさざるを得ない。1930年代と同様に、経常収支黒字国が支出の拡大を渋っているために、経常収支赤字国が景気の低迷を余儀なくされている。ケインズは、大恐慌の経験に学んで、慢性的な経常収支黒字国に対して(課税や制裁といった)何らかの措置を講じる必要性を訴えた。大恐慌から60年少々が経過しているが、ケインズが大恐慌の経験から導き出した教訓が忘れ去られてしまっているようだ。

「1930年代の教訓」を売り物にするマーケット(アイデア市場)に新規参入が相次いでおり、非常に激しい競争が繰り広げられている最中だ(例えば、以下を参照せよ。Mason and Mitchener 2010, Fishback 2010, Helbling 2009)。我々もその競争の輪に加わらせてもらうとしよう。ただし、「金融危機を拡散させる上で、固定為替相場制度が果たす役割」と「金本位制の経験から得られる教訓」の2点に焦点を絞って、参戦させてもらうとしよう。

1930年代における世界経済危機の最中においては、金本位制が重要な役割を演じた。この件については、我々のどちらもが一家言を持っていて、詳細な分析を加えている(Temin 1989, Eichengreen 1992)。当時の金本位制が備えていた特徴を列挙すると、次のようになるだろう。国境を越えた金(ゴールド)の自由な移動、固定相場制――金と自国通貨との交換比率(平価)を一定に固定(それゆえ、金本位制を採用している国同士の間の為替レートも一定に固定――、国家間の調整を図る(超国家的な)国際機関の不在。

金本位制が備えていた以上のような特徴は、経常収支赤字国と経常収支黒字国の間に「非対称性」を持ち込む結果になった。金準備の減少が続いていて、平価を維持するのが困難になっている国(経常収支赤字国)は、一種の罰則を受け入れざるを得なかった一方で、金準備を溜め込んでいる国(経常収支黒字国)は、(金準備を保有する代わりに、他の資産に投資していれば得られたであろう金利収入を除くと)罰則を一切受け入れる必要がなかったのである。金準備の減少が続く経常収支赤字国は、多くのケースで、平価を切り下げる(為替レートを減価させる)のではなく、デフレ(国内物価の下落)を受け入れることを選んだのである。

1920年代を通じて、経常収支赤字国であるドイツやイギリスから、経常収支黒字国であるアメリカやフランスに向けて、金や外貨準備が大量に移動することになったが、それもこれも当時の金本位制に備わっていた「非対称性」が原因だった。(アメリカやフランスといった)経常収支黒字国は金準備が増えたからといって金融緩和(ひいては、リフレーション)を強要されることはなかった一方で、(ドイツやイギリスといった)経常収支赤字国は金準備が減るのに伴って金融引き締めを余儀なくされ、その結果としてますます強まるデフレ圧力に晒される格好になったのである。

イデオロギーとしての金本位制

金本位制は、単なる通貨制度にとどまる存在ではなかった。金本位制は、イデオロギーでもあったのだ。大恐慌当時の政策決定は、「金本位制は、繁栄を実現するための前提条件である」との信念に束縛されていた。生産や雇用を安定させることよりも、金本位制を維持することが優先された。世のセントラルバンカーは、金本位制を維持しさえすれば雇用も自ずと増えると思い込み、直接的に雇用を増やそうと試みても失敗するに違いないと信じ込んでいた。金本位制を維持しさえすれば、生産量が落ち込むこともないし、物価が下落することもないし、銀行が閉鎖して貯蓄(金融資産)を失うこともないはず・・・だったが、金本位制が維持されていたら起きるはずのない出来事が1930年代の初頭に現に起きてしまったのである。

期待と現実の大きな食い違いを前にして、どうにかしてその辻褄を合わせる必要が出てきた。起きるはずのない異常事態を慣れ親しんだ言語で無理矢理にでも解釈する必要に迫られることになったのである。危機が深まる中、批判の矛先は、「金本位心性」(gold-standard mentalité)に反逆した政策当局者に向けられた。「FRBやイングランド銀行が『管理通貨』という誘惑に負けたのが悪いのだ。金本位制のルールを守らずに、貨幣の濫発に手を染めるばかりか、金の不胎化に乗り出す始末。FRBやイングランド銀行が金本位制のルールを守ってさえいれば、金融市場も自ずと安定を取り戻し、それにあわせて、価格やコストの調整もスムーズに進んでいたはずなのに・・・」。

しかしながら、デフレに晒されていた当時の状況においては、そのような批判は間違いもいいところだったのだ。

21世紀版の金本位制と言えば、ユーロと人民元(ドルにペッグした人民元)ということになろう。金本位制と全く一緒とは言えないが、いくつか似た面があることは確かである。

ユーロ:金本位制よりも厳しいコミットメントを伴う通貨制度

ユーロは、金本位制よりもずっと厳しいコミットメントを伴う通貨制度である。というのも、金本位制の場合だと、投資家から怒りを買うことなしに離脱することができたが、ユーロの場合は――ギリシャに対して、ユーロから一時的に離脱することを勧める提案(Feldstein 2010)もあるようだが――そうはいかない〔訳注;特定の国がユーロから一時的に離脱することを選ぶと、それに伴って金融危機が発生する可能性が高いという意味。それに加えて、ユーロから離脱するためには、非常に手間のかかる交渉が待っている(EUの協定では、ユーロから離脱する手続きについて明確な規定がなく、ユーロから離脱するためにはEU自体から離脱する必要がある。EUから離脱するためには、全加盟国の承認が必要とされる)〕からである (Eichengreen 2007, Blejer and Levy-Yeyatia 2010)。

ユーロは、金本位制の後継というだけではなく、ブレトンウッズ体制の後継でもある。あえてこのことを指摘するのは、ブレトンウッズ体制が誕生するに至るまでの交渉に重要な意味が控えているからである。その交渉に参加した一人がケインズだ。ケインズは、戦間期の経済情勢を眺めているうちに金本位制の有害な影響に気付き始めた。そして、次のように結論付けた。金準備の減少に直面している国(経常収支赤字国)が既にデフレが定着している状況でさらにデフレの受け入れを選ぶことは、その国にとってだけではなく、周辺の国々にとっても有害である、と。

戦後(第二次世界大戦後)に二度と同じような事態が起きないようにするためには、どうしたらいいか? 経常収支赤字国だけではなく、経常収支黒字国も、(国際収支の)不均衡を是正する義務を引き受けるべき、というのがケインズの答えだった。しかしながら、その線に沿ったケインズの提案(「清算同盟案」)は、イギリスとアメリカの意見が対立したために、実現するには至らなかった。こうして、問題は未解決のまま棚上げされてしまったわけだが、棚上げしたまま忘れてしまってもいいということには当然ならない。

人民元:イデオロギーとしてのドルペッグ制

もう一つの重要な固定相場制度である「ドルにペッグした人民元」は、中国の開発戦略を支えるイデオロギーの中心的な要素の一つとして理解するのが適当だろう。ドルペッグ制(ドルにペッグした人民元)には、次の3つの役割が託されている。
  • 製造業の輸出を促進する
  • 海外から中国国内への直接投資を促進する
  • 国内企業の利益(ひいては、内部留保)の蓄積を促して、インフラ投資に振り向けることができる貯蓄の源泉を拡大する
固定為替レートを通じて結び付けられている国同士の間では、一方の国の政策が他方の国へも影響を及ぼすことになるわけだが、そのことについては当事者の間でもうっすらと気付かれてはいるようだ。しかしながら、何らかの行動に移ろうとする気まではないようだ――1920年代の状況とそっくりである――。例えば、2006年にIMF(国際通貨基金)が多国間協議の場を用意(pdf)して、それぞれの国の政策が国境を越えて他の国にも影響を及ぼす可能性を考慮に入れるように念押ししているし、アメリカと中国は、米中戦略・経済対話の場を通じて毎年会合を開いている。IMFは、定期的に多国間サーベイランスを実施している。しかしながら、重大な政策変更は、ほとんどなされていないままなのだ。

金本位制下だとドイツ、ユーロ圏だとギリシャ、現状のグローバル・インバランス〔訳注;近年における世界的な経常収支不均衡のこと。ちなみに、この論説の著者の一人であるアイケングリーンは、「グローバル・インバランス」をテーマに一冊物している。次がそれ。 ●バリー・アイケングリーン(著)/松林洋一・畑瀬真理子(訳) 『グローバル・インバランス』(東洋経済新報社、2010年)〕下だとアメリカということになるが、経常収支の大幅な赤字を抱える国に手を差し伸べよと言いたいわけではない。かつてのドイツにしても、ギリシャにしても、アメリカにしても、予算制約を無視しようとしている点では同じだ。いずれも、収入以上の生活をしており、そのせいで財政赤字と経常収支赤字が発生し、その赤字を海外からの借り入れで賄っている状態なのだ。

しかしながら、経常収支赤字国が抱える問題は、コインの片面でしかない。コインのもう一方の面である経常収支黒字国の政策も問題を抱えているのだ。1920年代~1930年代初頭にドイツをはじめとした中央ヨーロッパ諸国を襲った困難は、アメリカとフランスによる「金の不胎化」によって大きく増幅された。アメリカとフランスが経常収支の黒字を計上したおかげで、他のいずれかの国は経常収支の赤字を計上しなければならなかった。アメリカとフランスが支出の拡大を拒否したおかげで、他の国々は支出を切り詰めざるを得なかった。アメリカとフランスが(経常収支赤字国への)緊急資金援助を拒んだおかげで、経常収支赤字国で景気の悪化が加速した。その結果として、政治の舞台で悲惨な事態が引き起こされることになってしまったのである。

似たような展開が目下進行中である。経常収支の大幅な黒字を計上しているドイツが支出の拡大に難色を示しているせいで、ドイツと貿易面で深くつながっているギリシャがデフレを選ぶしかない瀬戸際に追いやられているのだ。資金繰りに苦しむギリシャが(経常収支の赤字を縮小するするために)対GDP比で10%にも上る支出のカットを短期間で成し遂げられるかどうかは、はっきり言ってわからない。現在のギリシャが抱えている問題は、1930年代初頭にドイツが抱えていた問題と似ている。1930年代初頭のドイツがそうだったように、ギリシャが(賃金をはじめとした)コストの削減を試みたとしても債務の負担が一層重くなるだけに終わるかもしれないのだ。

1931年のフーヴァー・モラトリアムの再現はあるのか?

だからこそだ。だからこそ(コストの削減を試みたとしても債務の負担が一層重くなるだけに終わるからこそ)、1931年にあのフーヴァー大統領〔アメリカ合衆国第31代大統領〕でさえもドイツに対して債務の支払い猶予(モラトリアム)を認めざるを得なかったのだ。「内的減価」〔訳注;デフレを通じた実質為替レートの減価〕――通貨の切り下げを実現するためにギリシャに唯一残された手段――には、債務の再編が伴う必要があるのだ。フーヴァー・モラトリアムが実現するには、アメリカによる政策変更が必要だった。それと同じように、ギリシャの債務再編に漕ぎ着けるためには、EUとIMFによる方向転換が必要とされることだろう。

中国をはじめとしたその他の(経常収支黒字を抱える)国々が支出の拡大に難色を示すだけでなく、ドルに対して自国通貨を切り上げるのを拒むようなら、アメリカが国内の雇用を増やすために打てる手は、輸出品の競争力を高めるくらいしか残されていない。オバマ大統領は、アメリカ国内で完全雇用を実現するために、今後5年間で輸出量を倍に増やすことを目標に掲げている。しかしながら、(経常収支黒字を抱える)アジア諸国が支出を増やすなり名目為替レートの増価を受け入れるなり高めのインフレを許容するなりして、実質為替レートがアメリカに有利な方向に調整されない限りは、輸出量を倍に増やすためには、アメリカ国内の(賃金をはじめとした)コストを削減して、大幅に生産性を高めるしかない。そのような努力も水の泡に終わる・・・なんてことになれば、保護主義に向けた反動が生じかねない。

結論

結論をまとめるとしよう。国際通貨制度というのは、為替レートを通じて結び付けられているすべての国の行動如何でその運行がスムーズにいくかどうかが左右される「システム」であると言える。経済収支赤字国の行動だけではなく、経常収支黒字国の行動も、システム全体に影響を及ぼす。それゆえ、経常収支赤字国だけに不均衡を是正するすべての責任を押し付けるわけにはいかないのだ。

ケインズも大恐慌の経験から同様の教訓を導き出した。そして、第二次世界大戦中に考案した「清算同盟案」の中で、慢性的な経常収支黒字国に対して(課税や制裁といった)何らかの措置を講じる必要性を訴えたのだった。大恐慌から60年少々が経過しているが、ケインズが大恐慌の経験から導き出した教訓が忘れ去られてしまっているようだ。


<参考文献>

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●Eichengreen, Barry (1992), Golden Fetters: The Gold Standard and the Great Depression, 1919-1939, Oxford University Press.
●Eichengreen, Barry (2007), “The euro: love it or leave it?”, VoxEU.org, 17 November.
●Fishback, Price (2010), “US monetary and fiscal policy in the 1930s – and now”, VoxEU.org, 30 April.
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●Mason, Joseph and Kris James Mitchener (2010), “Exit strategies for central banks: Lessons from the 1930s”, VoxEU.org, 15 June.
●Temin, Peter (1989), Lessons from the Great Depression(邦訳 『大恐慌の教訓』), MIT Press.


<訳者による補足>

この論説は、以下の論文の縮約版である。

●Barry Eichengreen and Peter Temin, “Fetters of Gold and Paper”(NBER Working Paper No. 16202, July 2010;Oxford Review of Economic Policy誌に掲載されたバージョンはこちら

2014年9月19日金曜日

Z. G. 「経済学者は世論に影響を及ぼせるのか?」

Z. G., “Economics for the masses”(Free exchange, August 20, 2014) 

これまで経済学者は堅苦しい存在として捉えられがちだった。しかしながら、ここ最近になって経済学者は自らのことを俗世間での露出にも耐え得る存在として売り出し始めている。データジャーナリズムの隆盛も一因となって「陰鬱な科学」の専門家たちが続々と公共圏へと足を踏み入れてきているのである。しかしながら、経済学者の意見と世間一般の意見(世論)との間にはしばしば大きなギャップが存在している。果たして経済学者は世間一般の人々のハートを掴み、世論を変えることができるのだろうか? それとも経済学者の意見は世間一般の人々の既存の信念(訳注;各人が前々から正しいと信じ込んでいること)を正当化したり補強するために利用されているに過ぎないのだろうか?

デューク大学に在籍する政治学者らが共同で執筆した新たな論文(*)によると、経済学者は世論に影響を及ぼす力を持っているという。しかしながら、それはあくまでテクニカルな話題に限られるということだ。政治的にホットな話題(訳注;政治の場で論争の的となるような話題)については経済学者は世論に対してそれほど影響を及ぼすことができないというのだ。この論文では、世間一般の人々が経済学者という存在に対してどのようなイメージを抱いているか――信頼できるかどうか――を聞き取り調査を通じて明らかにするとともに、経済学者の間でコンセンサスが得られている政策問題(例えば、移民の受け入れ金本位制への移行の是非など)について世間一般の人々がどのような意見を持っているかが調査されている。そして世間一般の人々が「専門家のコンセンサス」に触れた結果として自分の意見を変えるかどうか、経済学者に対するイメージを見直すかどうかが検証されている。

さて、その結果やいかに? まずは悪い報せから取り上げることにしよう。経済学者の間でコンセンサスが得られている問題について意見を尋ねたところ、聞き取り調査に回答した(世間一般の)人々のうち――「わからない」と答えた人は除く――大多数はいずれの問題についても経済学者とは異なる意見を述べた。さらには、回答者のうちわずか59%だけが「経済政策」に関わる経済学者の意見を信頼すると答えた。それもその大半は「少しだけ信頼する」というに過ぎなかった。経済学者に対する不信の程度はどの属性のグループの間でも大体似たようなものだったが、そのような中でも経済学者を信頼すると答える可能性が特に低かったのは政治的に右寄りの回答者だったという。

しかしながら、良い報せもあるにはある。回答者がそれぞれの問題について自らの意見を述べた後に「専門家のコンセンサス」を伝えられると、多くの回答者は自らの意見を変えて「専門家のコンセンサス」に同意する傾向が見られた。しかしながら、その効果の大きさは問題の性質によって違っていた。 金本位制への移行の是非や今後の税収予測といったテクニカルな問題については回答者の多くは「専門家のコンセンサス」を知るや(直前の自らの意見を変えて)それに同意する傾向にあったが、中国との貿易問題や移民のメリットといった政治的にホットな問題については「専門家のコンセンサス」が世論を揺さぶる力(訳注;世間一般の人々の意見を変える力)は弱々しいものであった。そればかりではない。政治的にホットな問題について自分の意見が「専門家のコンセンサス」とは違うことを知るや、回答者たちの経済学者に対する信頼の程度は大きく低下することになったのである。テクニカルな問題についてはそのような結果は観察されなかった。テクニカルな問題については自分の意見と「専門家のコンセンサス」が違うことを知っても回答者たちの経済学者に対する信頼の程度は影響を受けなかったのである。感情に訴えるような(政治的にホットな)話題については世間一般の人々は経済学者の意見を自らの偏見(あるいは既存の信念)にお墨付きを与える手段として利用しており、そのような手段として利用できないと知るや「経済学者なんて信頼できない」との判断に傾く。そういう次第になっているのかもしれない。

経済学者が公共政策に影響を及ぼす――そして望むらくは改善する――ためには世論を納得させることが極めて重要である。そうする上ではどのようなアドバイスを送るのが適当だろうか? テクニカルな話題にだけ口を挟むというのは有益でもないし、有望であるようにも思えない。その性質上どうしても政治的にホットになりがちな問題であっても経済学者が有益なアドバイスを送ることのできる問題は数多いのだ。しかしながら、そういった政治的にホットな問題に口を挟む際にもやり方によってはアドバイスの効果を高めることができるかもしれない。例えば、「移民を受け入れよ!」と結論だけを述べるのではなく、移民の受け入れに伴う便益を計測してその結果を前面に出して伝える・・・といったようにあえてテクニカルな語り口で語りかけるようにすれば、経済学者のアドバイスが世間から聞き入れられる可能性も高まるかもしれない。


*“Economists and Public Opinion: Expert Consensus and Economic Policy Judgments” Christopher D. Johnston, Andrew O. Ballard. Working paper

Douglas Irwin 「大恐慌の原因はフランスにもあり?」

Douglas Irwin, “Did France cause the Great Depression?”(VOX,  September 20, 2010)

大恐慌(Great Depression)に関する専門的な研究の多くは、大恐慌があそこまで深刻な不況となった理由を金本位制に求めている。これまで経済史家は、大恐慌の引き金となった要因としてアメリカによる金融引き締めに着目してきたが、フランス(による金融政策)が果たした役割に対しては十分な注目が払われていない。世界全体に存在する金準備のうちフランスが保有する割合は、1926年の時点では7%だったが、1932年の時点ではその割合は27%にまで上昇することになったのである。1930~31年の間に世界全体で物価は30%下落することになったが、そのうちのおよそ半分はフランスとアメリカによる金の大量保蔵(溜め込み)によって説明できる可能性があるのだ。

1930年代に発生した大恐慌(Great Depression)に関する経済学の専門的な研究の多くは、当時の景気後退の長さと深刻さを金本位制と結び付けて論じる傾向にある。金本位制を採用していた国では為替レートが固定されることになったため、危機に対処する手段として金融政策に頼れなかったというわけである(詳しくは、Temin(1989)、Eichengreen(1992)、Bernanke(1995)などを参照のこと)。

しかしながら、金本位制が1929年から1933年までの間にあれほどまでのデフレーションを世界規模で引き起こすことになった理由についてははっきりしない面もある。というのも、世界全体での金準備の量は1920年代から1930年代を通じて着実に増え続けていたのである。それなのに、どうして金本位制は自壊したのだろうか? どうしてあれほどまでの大激震が引き起こされることになったのだろうか?

大恐慌に関する標準的な説明

これまで経済史家は、1930年代の大惨事を説明しようと試みる中で、中央銀行が採用した政策に着目してきた。大恐慌の起源をめぐる標準的な説明では、1928年初頭にアメリカで実施された金融引き締めこそが大恐慌の引き金となったと考えられている(Friedman and Schwartz 1963, Hamilton 1987)。1928年初頭にFRBが金利を引き上げたことで他の国々からアメリカへと金が流入することになったが、FRBはそれにあわせて売りオペを行って金の流入を不胎化した。そのため、アメリカでは金の流入にもかかわらずマネタリーベースは増えず、(マネタリーベースが増えなかったために)景気が刺激されることもなかったが、その一方で金の流出に見舞われた国々は金融引き締めを余儀なくされることになった。かくして世界経済はデフレショックに見舞われることになり、その影響で通貨危機や銀行パニックが引き起こされ、さらにそれが原因となって物価の下方スパイラルに一層の拍車がかかる格好となった・・・というわけである。

新たな仮説

しかしながら、大恐慌に関する標準的な説明では見過ごされがちな事実がある。フランスもアメリカと非常に似通った行動に乗り出していたという事実がそれである。実のところ、フランスはアメリカを上回るスピードで金準備を溜め込むだけでなく、アメリカを凌駕する勢いで(自国に流入してきた)金の不胎化に乗り出していたのである(詳しくは、Johnson(1997)およびMouré(2002)を参照のこと)。1926年にフランが切り下げられたことも一因となって大量の金がフランスに流入することになったが、その結果としてフランス銀行が保有する金準備の量は急速な勢いで増大し始めた。以下の図1に示されているように、世界全体の金準備のうちフランスが保有する割合は、1926年の時点では7%に過ぎなかったが、1932年にはその割合は27%にまで上昇することになったのである。

図 1. 世界全体の金準備に占める各国のシェア(アメリカ(青)、フランス(赤)、イギリス(緑))



フランスやアメリカに金が集中した結果として、それ以外の国々は大きなデフレ圧力に晒されることになった。(アメリカとフランスを除く)それ以外の国々は、1929年から1931年までの間に世界全体の金準備のうち8%に相当する金を手放す格好となったわけだが、1928年12月の時点で(アメリカとフランスを除く)それ以外の国々が保有する(世界全体の金準備に占める)金準備の割合は15%だったことを考えると、そのほとんどを手放すことになったわけである。しかしながら、フランスとアメリカが金の流入を不胎化しなければ、フランスとアメリカへの金の集中も世界経済にとって問題とはならなかったことだろう。フランスとアメリカが金の流入を不胎化しなければ、金の流出に見舞われた国々では金融引き締めを余儀なくされる一方で、フランスとアメリカでは金の流入に伴って金融緩和が進められることになる。すべての国が古典的な金本位制の「ゲームのルール」に従うようなら当然そうなるはずだったが、戦間期においてはすべての国が同意する「ゲームのルール」は確立しておらず、フランスもアメリカも金の流入が金融緩和につながらないように金の流入を不胎化していたのである。

フランスによる(金の流入の)不胎化の実態は、正貨準備率の推移を辿った以下の図2で見て取れる。正貨準備率というのは中央銀行債務(銀行券発行残高+当座預金残高)に対する金準備の割合を指しているが、この方面でフランスが辿った進路は他の国と比べて際立っている。フランス銀行の正貨準備率は、1928年12月の時点では40%だったが(法律で定められていた正貨準備率の下限は35%)、1932年12月の時点ではその値は80%近くにまで上昇しているのだ。フランスの金準備は1928年から1932年までの間に160%も増加したわけだが、その間にマネーサプライ(M2)はまったくと言っていいほど変化しなかった。同時代人の間ではフランスを指して「金の溜池(金の吸引機)」(“gold sink”)と呼ぶ声もあったというが、それももっともなことだと言えるだろう。

図 2. 主要中央銀行の正貨準備率(1928年~1932年)




アメリカとフランス(による金融政策)が世界経済に及ぼしたデフレ圧力はどの程度か?

1928年を基準年として選ぶとすると、任意の年に(不胎化されたことで)未利用のままに置かれている〔訳注;金融緩和のために使用可能ではあるが、使用されずにいる〕金の量を次のようにして求めることができる。その年の金準備の量から、その年の中央銀行債務(マネタリーベース)に1928年時点の正貨準備率を掛け合わせたもの〔訳注;その年の中央銀行債務(マネタリーベース)×1928年時点の正貨準備率=1928年時点と同じ正貨準備率を維持する上で必要となる金準備の量〕を差し引くのである。そのようにして求められた「未利用の金の量」をグラフにしたのが以下の図3である(世界全体の金ストック(残高)に対する割合として表わされている)。

フランスとアメリカは、1930年の時点では両国合わせて世界全体の金ストックのおよそ60%を保有していたわけだが、その同じ年に両国合わせて世界全体の金ストックの11%を未利用のままに置いていたことになる。1929年と1930年に関してはフランスもアメリカも(金の流入を不胎化し、金を未利用のままに置いておくことで)世界経済に対して同等のデフレ圧力を及ぼしたと考えられるが、1931年と1932年に関してはフランスの方がアメリカよりもずっと大きなデフレ圧力を世界経済に及ぼすことになったと考えられる。1928年から1932年までの期間全体で判断すると、フランスはアメリカを上回るデフレ圧力を世界経済に及ぼすことになったと考えられる。というのも、1928年時点と同じ正貨準備率を維持するという前提でいくと、1928年から1932年までの間にフランスがさらなる金融緩和のために利用できたはずの金の量は世界全体の金ストックの13.7%に相当する一方で、同じ期間にアメリカがさらなる金融緩和のために利用できたはずの金の量は世界全体の金ストックの11.7%に相当するという結果になっているからである。

図 3. 未利用の金の量(1929年~1932年)



物価に及ぼした影響

デイヴィッド・ヒュームは1752年に「貨幣について」(“Of Money”)と題されたエッセイの中で次のように語っている。「硬貨(貨幣)がたんすの中にしまい込まれると、硬貨がこの世から消滅した場合と同様の効果が物価に対して生じることになる」。さて、フランスとアメリカが金を未利用のままに置いた――金をたんすの中にしまい込んだ――ことで世界全体の物価水準に対してどのような影響が生じたのだろうか? 私自身のつい最近の研究によると(Irwin 2010)、世界全体の金ストックが1%だけ増えると、世界全体の物価水準は1.5%だけ上昇するとの関係が成り立つことが確認されている。フランスとアメリカを合わせると1930年の時点では世界全体の金準備のうち11%が未利用のままに置かれていた〔訳注;世界全体の金ストックが11%だけ減少した〕わけだが、そのことが物価に対して及ぼした影響を(世界全体の金ストックが1%だけ増えると、世界全体の物価水準は1.5%だけ上昇するという)先の関係を使って算出すると、世界全体の物価水準をおよそ16%下落させる効果を持ったということになる〔訳注;世界全体の金ストックが1%だけ増えると、世界全体の物価水準は1.5%だけ上昇するという関係が成り立つとすると、世界全体の金ストックが11%だけ減少すると、世界全体の物価水準はおよそ16%(=(-11)×1.5)だけ下落するということになる〕。1930~31年の間に世界全体の物価水準は30%下落したわけだが、先の単純な演算によると、そのうちのおよそ半分はフランス銀行とFRBによる金の溜め込みによって引き起こされたと結論付けられることになろう(Sumner(1991)も異なる計算手法を使って同様の結論に達している)。

デフレスパイラルに一旦嵌ると、他の要因が関与してきて物価の下方スパイラルに一層の拍車がかかることになるというのは確かである。例えば、アーヴィング・フィッシャー(Irving Fisher)が指摘したデット・デフレ(債務デフレ)のメカニズムが働く可能性がある。デフレによって企業の破産が増え、それに伴って銀行パニックが発生すると(銀行取付などを通じて預金の引き出しが増える結果として)現金預金比率が上昇して貨幣乗数が低下する可能性がある。しかしながら、そういった出来事は当初のデフレショックから独立して発生したとは見なし得ず、それゆえ、物価下落のうち「説明されずに残っている」部分〔訳注;30%の物価下落のうち、残りの14%(=30-16)〕についても少なくともその一部はフランス銀行とFRBが間接的に責任を負っていると言えるだろう。

まとめるとしよう。これまで経済史家は、大恐慌の引き金となった要因として1928年初頭にアメリカで実施された金融引き締めに着目してきた。しかしながら、世界全体をデフレスパイラルに陥れた元凶ということで言うと、フランスが果たした役割にもこれまで以上にずっと大きな注目が払われてしかるべきなのだ。


<参考文献>

●Bernanke, Ben (1995), “The Macroeconomics of the Great Depression: A Comparative Approach(pdf)”, Journal of Money, Credit and Banking, 27:1-28.
●Eichengreen, Barry (1992), Golden Fetters: The Gold Standard and the Great Depression, 1919-1939, Oxford University Press.
●Friedman, Milton, and Anna J Schwartz (1963), A Monetary History of the US, 1867-1960, Princeton University Press.
●Hamilton, James (1987), “Monetary Factors in the Great Depression”, Journal of Monetary Economics, 19:145-169.
●Irwin, Douglas A (2010), “Did France Cause the Great Depression?”, NBER Working Paper 16350.
●Johnson, H Clark (1997), Gold, France, and the Great Depression, 1919-1932Yale University Press.
●Mouré, Kenneth (2002), The Gold Standard Illusion: France, the Bank of France, and the International Gold Standard, 1914-1939, Oxford University Press.
●Sumner, Scott (1991), “The Equilibrium Approach to Discretionary Monetary Policy under an International Gold Standard, 1926-1932”, The Manchester School of Economic & Social Studies, 59:378-94.
●Temin, Peter (1989), Lessons from the Great Depression(邦訳 『大恐慌の教訓』), MIT Press.